グスタフ・クリムト(1862-1918)は世紀末ウィーンで活躍した画家。
1862年、ウィーン郊外のバウムガルテンで、彫金師の家に生まれる。
14歳の時に奨学金を得て、工芸美術学校に入学。
卒業後は、弟のエルンストや友人のフランツ・マッチュと芸術家商会(芸術家カンパニー)を立ち上げ、壁画や劇場の装飾を手掛ける。
1897年、ウィーン分離派結成(初代会長)
⇒「分離派」という言葉は、オーストリア芸術家組合からの”分離”を意味している

「ウィーン分離派」といえば!なこちらの写真。
結成当初の写真に思う方もいるかもしれないが、じつは1902年(ウィーン分離派結成して5年後)に撮られたものである。

ウィーン分離派会館。
入り口には「時代には芸術を、芸術には自由を」のモットーが掲げられている。
1902年、『ベートーヴェン・フリーズ』を発表。
この作品は分離派内でも賛否を生み、1905年クリムトはウィーン分離派を脱退。
ウィーン分離派を脱退した後、《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》《接吻》、《死と生》といった代表作を次々と発表。
1918年2月、55歳で亡くなる。

(クリムトには少なくとも14人の子供がいたといわれている)
〈代表作〉
- 《人生は戦いなり(黄金の騎士)》1903年(愛知県美術館 蔵)
- 《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》1907年(個人蔵)
- 《接吻》1907–1908年(ベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館 蔵)
- 《死と生》1915年(ウィーン、 レオポルド美術館 蔵)
〈略歴〉
1862年 ウィーン郊外のバウムガルテンに生まれる
1894年 ウィーン大学講堂の天井画を手掛ける(医学・法学・哲学)
⇒現在は焼失
1897年 ウィーン分離派を結成、初代会長を務める
1898年 第一回ウィーン分離派展
1902年 『ベートーヴェン・フリーズ』を発表
⇒不評。ウィーン分離派内でも賛否が分かれる
1905年 ウィーン分離派を脱退
1914年 ※第一次世界大戦開戦(~1918)
1918年 55歳で亡くなる
〈masaya’s Viewing History〉
クリムト展 ウィーンと日本 1900
東京都美術館
2019年4月23日㈫~7月10日㈬
クリムト展 ウィーンと日本 1900|東京都美術館
- 《ヘレーネ・クリムトの肖像》1989年
- 《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》1899年
- 《ユディトⅠ》1901年
- 《女の三世代》1905年
- 《オイゲニア・プリマフェージの肖像》1913/1914年
- 《ベートーヴェン・フリーズ》(原寸大複製)
日本・オーストリア外交樹立150周年記念 ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道
国立新美術館
2019年4月24日(水) ~ 2019年8月 5日(月)
日本・オーストリア外交樹立150周年記念 ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 | 企画展 | 国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道
- 《愛》(『アレゴリー:新連作』のための原画 No.46)1895年
- 《パラス・アテナ》1898年
- 《エミーリエ・フレーゲの肖像》1902年