(前ブログ「masayaのブログ美術館」からのリライト記事になります)
2019年11月16日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【「ビーダーマイヤー」の美術 19世紀中欧を風靡したその情趣】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
イントロダクション:ビーダーマイヤー
皆さまは「ビーダーマイヤー」という言葉はご存知でしょうか?
「ビーダーマイヤー」とは、19世紀前半のドイツとオーストリアで花開いた文化の名称です。
「ビーダーマイヤー」の名前の由来は、元々はドイツの風刺雑誌に登場した人物の名前で、「愚直な人」という意味になります。
小市民のビーダーマイヤーは簡素で心地の良いものを好みます。
ここから、単純だけど素材の美しさを活かした分かり易いデザイン、明るい色調を特徴とする様式を指す言葉として使われるようになりました。
「ビーダーマイヤー」という言葉は当初、家具やインテリアなどに使われる言葉でした。
その後、絵画などの他の芸術分野でも使われるようになっていきます。
時代的には1815年からのおよそ30年間です。
1848年の三月革命で市民たちが自由を勝ち取るのと共に、「ビーダーマイヤー」は終わりを迎えました。
作曲家のシューベルトはご存知でしょう。
「鱒(ます)」「野ばら」「魔王」などを作曲した事で知られるシューベルトも、「ビーダーマイヤー」と呼ばれたこの市民文化から生まれました。
画家:ヴァルトミュラー
音楽のみならず、絵画の世界にも影響を与えた「ビーダーマイヤー」。
その「ビーダーマイヤー」文化を代表する画家をご紹介します。
フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー(1793-1865、Ferdinand Georg Waldmuller)です。
《磁器の花瓶の花、燭台、銀器》1839年
ヴァルトミュラー
リヒテンシュタイン侯爵家コレクション蔵
Bunkamuraザ・ミュージアムで2019年に開催された「リヒテンシュタイン侯爵家の至宝展」のメインビジュアルにもなっていたこの作品を描いたのもヴァルトミュラーです。
《イシュル近くのヒュッテンエック高原からのハルシュタット湖の眺望》
ヴァルトミュラーは肖像画、風俗画、そして静物画まで幅広いジャンルの作品を手掛けました。
その中でも特に彼は風景画に力を入れました。
《イシュル近くのヒュッテンエック高原からのハルシュタット湖の眺望》1840年
ヴァルトミュラー
リヒテンシュタイン侯爵家コレクション蔵
高い視点から眺めた広大な風景。
空気遠近法と共に鮮やかな色彩が、高原特有の澄み切った空気を表現しています。
画面手前に見えるのは民族衣装を着た女性たち。
彼女たちの被る赤い帽子が画面にアクセントを与えています。
中央に湖があり、その彼方には雄大な山々がそびえたっています。
これは2500メートル級の山が連なるダッハシュタイン山塊(さんかい)です。
現在でも多くの登山客が訪れる場所になっています。
山の頂上には白く輝く万年雪も見えます。
「ハルシュタット湖」は世界遺産にもなっている景勝地で、あの有名な映画『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台にもなっています。
ヴァルトミュラーが初めてこの地を訪れたのは1829年の事です。
それ以来、彼はこの美しい風景を何枚も描きました。
ヴァルトミュラーはありのままの自然を観察し、そこから学ぶことが画家にとって一番重要な事だと考えていました。
そしてこの考え方は、数十年後に起こる印象派を先取りするものでした。
ウィーン美術アカデミーとの対立
ウィーン美術アカデミーの教授も務めていたヴァルトミュラー。
しかし自然観察を重要視するその姿勢が原因で、美術アカデミーと対立してしまいます。
加えて自然観察の重要性を主張するだけでなく、美術アカデミー特有の「モデルを使ったデッサン」さえも批判します。
それにより他の教授陣たちとの溝も次第に深まり、ついには教授職を辞職する事になるのです。
アカデミーを追われた後もヴァルトミュラーは自然に対する謙虚な気持ちと愛情を込めた作品を描き続けました。
パート1はここまでです。
パート2へと続きます。こちら☚からご覧頂けます。
コメント
[…] 今回はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧頂けます。 […]