【ぶらぶら美術・博物館】①大覚寺【永久保存版!冬の京都旅】

ぶらぶら美術・博物館

2020年1月7日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館スペシャル」の【#333 永久保存版!冬の京都旅】の回をまとめました。

番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。

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大覚寺

京都の嵐山にある有名なお寺「大覚寺(だいかくじ)」。
別名「旧嵯峨御所(きゅうさがごしょ)」とも呼ばれています。
場所は嵯峨嵐山駅から歩いて15分
876年に創建され、約1100年の歴史があるお寺です。

嵯峨天皇像

元々は嵯峨天皇が離宮をこの地に造り、更にそこに弘法大師・空海にお堂を建てさせたのが大覚寺の起源になっています。

嵯峨天皇第52代の天皇で、平安京遷都を行った桓武天皇から数えて三代目に当たる天皇です

五大堂(本堂)

嵯峨天皇がこの離宮に五大明王を祀ったお堂(五覚院)を建立したのが、大覚寺の始まりです。
それ以来、皇族が住職を務める「門跡寺院(もんせきじいん)」として運営されてきました。

現在の五大堂は、江戸時代に建てられたものです。

こちらの本堂で、来館者は写経を体験することができます。
料金は、般若心経写経で1000円。一字写経は100円となっています。
一字写経は例えば外国人の方などに人気だそうです。

 

画像出展:大覚寺ホームページより

お堂の中には五大明王が納められています。
ここで一度五大明王の名前をおさらいしましょう。
中央に鎮座しますのが「不動明王(ふどうみょうおう)」です。そしてそのわきを固めますのが、
大威徳明王(だいいとくみょうおう)
軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
降三世明王(ごうざんぜみょうおう)
金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
となります。

五大明王というのは、空海が初めて中国から日本に持ち込んだ密教の重要な仏様です。
実は国家レベルの儀式でなければ五体そろえて拝むという事は難しいのです。
つまり五大明王が祀られている所というのは格式の高い、もしくは相当大きいお寺という事になります。

現在五大堂に祀られている五大明王昭和の時代に造られたものになります。
創建当時の五大明王像も残っていますが、こちらは霊宝館(れいほうかん)という場所に今は納められています。

霊宝館

こちらの霊宝館はいつでも見る事ができるわけではなく、期間限定での公開となっております。
*直近の公開は2020年3月を予定しているとの事です。

 

画像出展:京都ミュージアム探訪より

こちらの五大明王像は平安時代に後期に造られたもので、国の重要文化財に指定されています。
実物の御姿は全体的に黒くなっていますが、法要での煤や護摩やお線香などで元々彩色されてた御姿からこのようになりました。

作者は明円(みょうえん)と伝わっています。
明円は生没年は分かっていませんが、平安末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師で、円派(えんぱ)という仏師の集団に属していました。
同じ時代の仏師集団で、他には慶派(けいは)や院派(いんぱ)があります。
慶派の仏像が武家社会に受け容れられたのに対して、円派は公家を中心に人気があり、優美で穏やかな仏像を造るのが特徴です。

明円は円派の中でも有名な人物で、記録も様々残っていますが作例はこの五大明王像が唯一となっています。
しかし、円派自体は明円以降、衰退していきます。

宸殿(重要文化財)

読み方は「しんでん」と読みます。

こちらはどのような建物かというと、徳川二代目将軍・秀忠の娘の徳川和子(まさこ)が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の元に嫁いだ際の住まいとなった建物を、そのまま移築したものになります。

蔀戸(しとみど)と呼ばれる両面に格子を組んだ戸がこの建物では使われており、高貴な建物でよく使われているものです。
上下に開くようになっており、上だけを開けた際には明かり取りになる仕組みになっています。

大覚寺の蔀戸にはおもしろい装飾が施されています。
それは留め金の所に付けられた「セミ」の装飾です。
全ての蔀戸につけられているのですが、それぞれ違うセミの形をしているという凝った仕様になっています。

でも、どうしてセミなのでしょうか?
実はセミは生き物の中でも、生まれてから死ぬまでの間に殺生をしない生き物ということで、仏教の世界では大切にされてきました。
(セミは木の汁を吸って生きており、他の虫を食べたりはしません)
仏教の世界では殺生をしない」というのは一番重要な教えになります。
それを体現しているということで、ここでもセミがモチーフとして付けられました。

狩野山楽による障壁画

宸殿の内部には「牡丹の間」と呼ばれる場所があり、そこの18面からなる障壁画が有名です。
描いたのは狩野山楽(かのうさんらく)です。

山楽狩野探幽が江戸に行った後も京都に残り、「京狩野」と称された、狩野派の絵師です。
狩野派らしい岩の線や、牡丹の花の柔らかさが特徴です。
ちなみに「牡丹の間」の内部には普段入る事はできません。

現在江戸時代に描かれた本物の障壁画は修復作業が行われており、今展示されているのは昭和初期に描かれた複製のものになります。

しかしその複製画も2018年9月の台風21号の影響により被害を受けて破損、修復が現在も行われています(一部は修復済みです)。
そのため今ある複製画も、全面揃った状態で見る事ができなくなっています。
修復作業は長期間に渡る事が予想されていますが、出来上がったものから随時展示をしていくとの事です。

村雨の廊下

続いてご紹介するのは「村雨(むらさめ)の廊下」です。
大覚寺は全ての建物が渡り廊下で繋がっており、それらを「村雨の廊下」と呼びます。

村雨というのは沢山降っている雨の事を言いますが、この名の由来は二つ伝えられています。

一つは、廊下の形がジグザグでそれが稲光に見えるというのが一つ。
もう一つが、柱が沢山ありそれが大量の雨に見えると、いうのがその所以です。
雨が降っていて、且つ形が稲光のように見えるので「村雨の廊下」と呼ばれます。

また、防犯上の為の工夫が施されているのも特徴です。
例えば天井は、刀などの武器が振り上げることができないように低く設定されています。
さらに侵入者が来た時も分かるようにと、床に鴬(うぐいす)張りが仕掛けられています。

御影堂(別名:心経前殿)

読み方はそれぞれ「みえどう」「しんぎょうぜんでん」と読みます。
「心経前殿」は般若心経の前の建物という意味です。

御影堂の「お御影」とは、昔まだ写真が無かったころに肖像や人の姿を、絵画や彫刻で表したものの事を言います。
そしてそれを飾っている所を「御影堂」と呼びます

大覚寺の御影堂には、創建にゆかりの深い人物の御影が納められています。
(右端から)
弘法大師・空海
嵯峨天皇
後宇多法皇
恒寂法親王
の四名の彫刻が納められています。
特に空海と嵯峨天皇は親交が深かったと言います。

また御影堂は入ると正面奥が窓になっており、そこから次にご紹介する心経殿を望むことができます。

勅封心経殿

では次に「心経前殿」の奥にあります「勅封心経殿」についてご紹介いたします

平安時代初期、遷都して間もない頃に大飢饉、疫病が都を襲いました。
そして多くの人が亡くなりました。
そんな国の状況をどうすればよいか、と嵯峨天皇空海に相談したところ、
「般若心経を写経すると良い」と勧めたといいます。
その後、嵯峨天皇が写経を書き終えた瞬間に疫病が平らかになったという伝説が残されています。

この「勅封心経殿」はその時書写した般若心経が納められています。

その「般若心経」は60年に一度公開されていますが、なんと前回が一昨年に公開されています。
つまり次の公開は2020年からだと58年後(2078年)になります。

僕は生きていれば90歳。 厳しいなぁ(笑)

大沢池

読み方は「おおさわのいけ」と読みます。
大覚寺内にある平安時代に作られた日本最古の人口池で、その周囲およそ1キロに及ぶ巨大な池です。

続いては、2019年10月にオープンした「福田美術館」をまとめています。
【ぶらぶら美術・博物館】②福田美術館 パート1【横山大観・木島櫻谷】

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