雪舟の生涯
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
雪舟の生涯には多くの謎があり、その全ては未だに分かっていません。
備中国(今の岡山県)に生まれ、10代半ばで京都・相国寺に向かいます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
この寺で当時の画壇の中心的画僧だった周文(しゅうぶん)に弟子入りし、水墨画を学びます。
しかし京都では中々芽が出ませんでした。
雪舟の力強く、荒々しい画風は、京都画壇ではあまり受け入れられなかったのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
30代半ばになった頃、雪舟は周防の国(現在の山口県)の有力守護大名の大内氏から声が掛かり、居を移します。
大内氏の庇護を受けながら、10年以上この地で過ごしました。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらは山口滞在中に描かれた《山水図》、重要文化財にも指定されています。
この作品を描いた頃は拙宗(せっしゅう)と名乗っていました。
山肌や木々は輪郭線を用いず、墨を注ぐだけで表現され、大胆な画風であるのが分かります。
その後、38歳の時に私たちの知る”雪舟”に改名します。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
1467年、京都で応仁の乱が勃発したこの年、雪舟は中国・明へと渡ります。
この時既に40代後半に差し掛かっていました。
雪舟は水墨画の本場、中国で3年間学びます。
日本では見られない本場の風物や自然を体感し、画風を確立していきます。
李さんによると、山水画というのは農耕社会が生み出したもので、中国・唐の時代にほぼ完成された絵だといいます。
当時の文化人や知識人は、山水とは”自然の原型”であると考えました。
その”自然の原型”は、大きく捉えると”宇宙の原型”でもあるのです。
狩猟時代から農耕時代へ変わる事で、人間の中に自然に対する”畏れ”と”憧れ”が芽生え、その感性が”山水”を非常に壮大で、遥かなものにしていったのです。
今回の記事はここまでです。
パート2へと続きます。
こちら☚からご覧いただけます。
コメント
[…] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1の記事はこちら☚からご覧頂けます。 […]