【ぶら美】あやしい絵展②【歌川国芳、藤島武二、田中恭吉】

ぶらぶら美術・博物館

2021年4月6日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#375 東京国立近代美術館「あやしい絵」展~神秘・退廃・グロテスク…蕭白から松園まで、名画で辿る”あやしい”の系譜~】の回をまとめました。

今回の記事はパート2になります。
前回のパート1はこちら☚からご覧いただけます。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

スポンサーリンク

《源頼光公舘土蜘作妖怪図》歌川国芳

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは江戸時代末期に活躍した歌川国芳(1798-1861)の作品です。

平安時代の武将の源頼光(みなもと の よりみつ)と彼の四人の部下である四天王が、土蜘蛛退治をする「土蜘蛛伝説」に基づいた作品です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

画面右上にいるのが土蜘蛛で、その下で苦しめられているのが源頼光です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その手前で碁を打ったり、妖怪を睨んでいるのが四天王です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その背景には妖怪の大群が描かれています。

歌川国芳らしい妖怪ですね!


国芳といえば、作品の中に社会風刺を込めることでよく知られています。
源頼光公舘土蜘作妖怪図》が描かれたの天保14年ですが、この作品はその少し前に行われた天保の改革を風刺していると考えられています。

当時、江戸幕府は財政が悪化していたため、様々な改革が行われていました。
天保の改革(天保12(1841)年~天保14(1843)年)は、老中・水野忠邦が主導した改革です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

当時の改革の基本姿勢は、「ぜいたくの禁止」でした。
歌舞伎を見に行ってはいけない!」などの禁止令が出て、庶民からは反発の声が上がりました。

描かれている人物や妖怪も、それぞれ改革に関連する人たちだといわれています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

妖怪として描かれているのは、改革の影響を受けて苦しめられた、あるいは廃業に追い込まれた人々の恨みの化身です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

妖怪たちの大ボスである土蜘蛛に苦しめられている源頼光は、当時の将軍の徳川家慶を表しています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

そして四天王の一番右側にいる渡辺綱(わたなべ の つな)は、着物の家紋が水野忠邦のものと同じな事から、水野忠邦だといわれています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

妖怪たちをよく見てみると、当時の改革でどういった人たちが影響を受けたのかが分かります。

こちらには歯のない妖怪が描かれていますが、これは「歯なし」から「噺家(はなしか)」を表しているとか。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらのギョッロとした目の妖怪は、歌舞伎役者の市川海老蔵だといわれています。


幕末は改革や一揆、さらに地震や飢饉なども起こり、非常に不安定な時代でした。
そういった背景もあり、このような少し怖い作品やユーモラスな作品は、日常の不安を一時でも忘れらる、心の癒しであり刺激にもなっていたのです。

《婦人と朝顔》藤島武二

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

藤島武二(1867~1943)は、明治末から昭和期にかけて活躍した日本の洋画家です。

この《婦人と朝顔》は、1904(明治37)年の第9回白馬会展という展覧会に出品され、発表当初は《》というタイトルでした。

「朝」という”概念”を表した作品で、女性や背後の朝顔でそれを表現しています。

目に見えない概念を視覚化して描いた絵の事を、当時は「構想画」と呼んでいました。
これは西洋における象徴主義と同じ考え方です。

藤島武二や彼と並び活躍した黒田清輝らは、西洋美術の伝統や技法を積極的に取り入れました。
描き方は印象派風ですが、描く対象は象徴主義の考え方を採用しています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

黒く大きな瞳でまっすぐ見つめる視線や肉感的な唇には、当時日本の芸術家たちを魅了したイギリスのラファエル前派の影響も感じられます。

《冬蟲夏草》田中恭吉

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

作品の読み方は「とうちゅうかそう」です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

作者の田中恭吉(1892-1915)は明治~大正にかけて活躍した画家・版画家・詩人です。
萩原朔太郎の詩集「月に吠える」で彼の作品が取り上げられたことでも知られています。
結核にかかった田中は23歳の若さで亡くなってしまいます。

この《冬蟲夏草》は亡くなる前年、22歳の時につくられた木版画作品です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

画面上部描かれた太陽に向かって、一輪の花が咲いています。
しかし根元の部分に目をやると、うずくまった人が描かれており、その背中から花が生えているのが分かります。

タイトルにもなっている「冬虫夏草」は、昆虫に寄生してキノコを生やす菌類のことをいいます。
「冬の間は虫だけど、夏になると草になる」ので、そのまま「冬虫夏草」と呼ばれています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

田中恭吉はこの作品に自分を託したのでは?」と山田五郎さんはいいます。

田中はこの時、結核を患っていました。
「自分が死んでしまった後も、自分から生まれた芸術は花のように咲いてほしい」と思っていたのでしょう。

「生への渇望」と「死への恐れ」が作品に込められているのです。

それを知ってから作品を見ると、また感じ方が変わってきますね。

今回の記事はここまでです。
続くパート3では、『日本のビアズリー』と呼ばれた水島 爾保布(みずしま におう)と、彼に影響を与えたビアズリーについてまとめていきます。

パート3は、こちら☚からご覧いただけます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

コメント

  1. […] 今回の記事は一旦ここまでになります。 パート2へと続きます。 こちら☚からご覧頂けます。 […]

  2. […] 今回の記事はパート3になります。 前回のパート2はこちら☚からご覧いただけます。 […]

タイトルとURLをコピーしました