【日曜美術館】ルノワールの名画、イレーヌの140年①【美術番組まとめ】

日曜美術館

2018年3月4日にNHKで放送された「日曜美術館」の【イレーヌ ルノワールの名画がたどった140年】の回をまとめました。

番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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イントロダクション


《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》1880年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
ビュールレ・コレクション

今回取り上げるのは、ピエール=オーギュスト・ルノワールが1880年に描いた《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》です。

本や教科書などで一度は目にした事があるという方も多いのではないでしょうか?
世界中の人々から愛される《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》。
じつはこの絵には驚くような物語がありました。

今回は様々な歴史的背景や各分野の専門家のコメント等から、この名画の秘密に迫ります。

展覧会『至上の印象派展 ビュールレ・コレクション』

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

2018年に東京・六本木の国立新美術館で開催された『至上の印象派展 ビュールレ・コレクション』でこの作品は公開されました。

ルノワール以外にも、名だたる巨匠たちの作品を見る事ができたこの展覧会。


セザンヌの代表作《赤いチョッキの少年》。


モネ作《睡蓮の池、緑の反映》。
印象派の代名詞ともいえる傑作です。


ゴッホの自画像も。
誰もが知っている名画が多数展示されていました。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

特別な一枚が箱から取り出されます。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》は実在の少女をモデルに描いた作品です。
イレーヌは1872年、パリの裕福な銀行家の家に生まれました。

写真家・渡辺達生氏の考察


渡辺達生氏はこの作品について、「そこまで強烈だと思っていなかった」と言います。
実物は”肌のトーン”や”光の階調”など段違いなのです。

フォーカスの位置はどこにも合っていません。唯一あっているのは、まつげの部分。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

ここにフォーカスがある事で、鑑賞者は知らず知らずの内に彼女の視線に引き込まれるのです。
耳も唇もフォーカスが来ておらず、ぼやっとした表現になっています。

「(ルノワールきっと彼女に会った時にこの、もう、顔とこの皮膚感にやられたんだろうね」(渡辺氏)

また渡辺氏は「皮膚感の表現に一番驚いた」と話します。
顔の肌色の中には、薄く青色が入っています。それはまるで血管のように見えるのです。

この作品が描かれた頃、世の中に”写真”が登場して、絵画にとってはライバルのような存在になります。
印象派の画家たちは写真に対抗して、きっちりした輪郭ではなく、ソフトな輪郭で表現したのです。
フォーカスを当てないというのが、印象派の特徴なんですよ」(多摩美術大学教授・西岡文彦氏)

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

少女の肌のトーン、特にあごの部分は強い光で黒くして立体感を出しておらず、柔らかい光だけで作られています。
これは写真なんかに通じるものがある。僕らも外で若い女の人を撮る時には、こういう光をよく使います」(渡辺氏)

西岡氏も「ルノワールの一番の特徴は肌の色だ」といいます。
それまでの絵画の肌の表現は、白塗りのように均一の色で塗ることが上品とされてきました。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

ところがルノワールはそこに赤や青、紫色を無数に入れました。
それが最もよく表れているのが手の部分です。血管が見えているのです。

《イレーヌ嬢》制作のいきさつとその評価

イレーヌの肖像を描いた1880年、ルノワールは39歳。
創作の大きな転機にありました。


《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場》1876年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
オルセー美術館蔵

ルノワールの代表作の一つ《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場》。
イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》が描かれる4年前の作品です。

舞台はパリのモンマルトルに実在したダンスホール。
休日を楽しむ人々を温かい木漏れ日の中に描いたこの作品は、ルノワールの代表作であると同時に、印象派の代表作ともいえます。

1877年の第3回印象派展に出品され、評判は上々でした。
しかし、この頃作品はあまり売れていませんでした。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

労働者階級の出身のルノワールにとって、これは死活問題でした。

起死回生のために一度印象派展から離れ、当時の美術界の権威であったサロンへ復帰します。

また当時は印象派グループ内で仲間割れが起きている頃でもありました。
サロンに活動の場を移すルノワールに対して、印象派の画家エドガー・ドガは「印象派の名に値しない。またサロンなんかに出して金持ちの機嫌をとっている、あんな人とは付き合いたくない」と怒りを露にしていました。


《シャルパンティエ夫人と子どもたち》1878年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
メトロポリタン美術館蔵

復帰したサロンで評判を読んだのがこちらの作品でした。
描かれているのはルノワールのパトロンだった出版界の大物、シャルパンティエ家族の肖像です。

社交界の花形だった夫人と子どもたちを温かい色彩で描きました。


そんなサロンでの評判がイレーヌの両親の耳にも入り、ルノワールに「娘の肖像画を描いて欲しい」と、オファーが舞い込みます。
ここで作品が気に入ってもらえれば、パトロンになってもらえる可能性があります。

ルノワールは気合を入れて、イレーヌの肖像画を描きます。


ふっくらとした手元やドレスは印象派らしいタッチで描かれています。


栗色の髪の毛は細かく丹念に筆を重ねています。


しかし顔の部分は印象派のような筆跡の残る描き方はされず、陶器のようになめらかに仕上げられています。
これは非常に古典的な描き方です。


ルノワールはこの自信作をサロンに出品。

このブロンドの少女ほど、かわいらしい作品を思い描く事はできない
かつてイギリスの画家たちが描いた肖像画のようだ

シャルパンティエ夫人と子どもたち》に続き、上々の評価を得ます。

今回の記事は一旦ここまでになります。
この続きはパート2にて!
こちら☚からご覧いただけます。

コメント

  1. […] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧頂けます。 […]

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