2020年4月2日にNHK・BSプレミアムで放送された「ダークサイドミステリー」の【ナチスを騙した男 20世紀最大の贋作事件】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
こちらの記事はパート3で、パート2からの続きになります。
前回の記事はこちら☚からご覧頂けます。
《エマオの食事》VS ブレディウス
![](https://masaya-artpress.com/wp-content/uploads/2020/04/無題.png)
《エマオの食事》1937年
ハン・ファン・メーヘレン
5年という歳月をかけて、メーヘレンが完成させたフェルメールの贋作《エマオの食事》。
メーヘレンはこの絵の出所について、イタリアに移住した裕福なオランダ人女性から預かったものとして代理人の弁護士に託し、ブレディウスの鑑定に持ち込まれました。
画像出展元:テレビ番組「ダークサイドミステリー」より
ブレディウスはさっそくアルコールテストを行います。
50年以内に描かれたものであれば、ここで見破ることができます。
しかしメーヘレンの”絵具に液体プラスチックを混ぜる”という作戦により、これを難なく突破します。
アルコールテストの次なる鑑定が行われるかと思いきや、ブレディウスはこのアルコールテストのみで《エマオの食事》にフェルメールの真作であると発表します。
これは当時の新聞にも大々的に発表されました。
なぜ《エマオの食事》は真作と判断されたのか?
しかし、ブレディウスはなぜアルコールテストのみで、それ以外の科学鑑定を行わなかったのでしょう。
それはズバリ《エマオの食事》こそ、逆に研究者が探し求めていた絵だったのです。
ポイントとなるのは、ブレディウスが唱えていたフェルメールの”空白期間”です。
フェルメールの総作品数は三十数点と言われます。
キャリア初期に宗教画を2、3点残して以降、そこからは2点の風景画を除いてすべて風俗画を描いています。
つまりこの”宗教画”以降”風俗画”に移行した時期の作品があるはずだとブレディウスは考えていたのです。
そこで出てきたのがメーヘレンが描いた《エマオの食事》だったのです。
この絵には聖書の場面を描いた”宗教画”の要素と、室内で食事を取る人という”風俗画”の両方の要素が取り入れられていたのです。
そして何より特徴的な左の窓から光が差し込む構図も取り入れられています。
画像出展元:テレビ番組「ダークサイドミステリー」より
それだけではなく、《牛乳を注ぐ女》に見られるパンの点描の表現や《天文学者》に似た人物を描くことで、後の風俗画への移行を予感させる作品へと仕上げたのです。
ブレディウスをこの作品を目にした時、「ニセモノではないか?」という考えより「未発見のフェルメールを発見した!やっぱり宗教画から風俗画への移行期の作品が存在したんだ!」という自分の説の立証を考えてしまったのでしょう。
メーヘレンはあえて専門家が欲しいと思っているフェルメールの贋作を作り上げたのです。
これはメーヘレンの巧みな作戦の勝利でした。
ブレディウスから真作のお墨付きを得た《エマオの食事》には、なんと5億円の値が付けられました。
そしてオランダの美術館で、レンブラントやゴッホなどの巨匠たちと並んで展示されることになったのです。
メーヘレンが描いたフェルメールの贋作
美術界の重鎮の目を欺き復讐を果たしたメーヘレン。
彼はその後もフェルメールの贋作を作り続けます。
ここでそれらを見てみましょう。
もちろん全てフェルメールの作品としてメーヘレンが描いたものです。
![](https://masaya-artpress.com/wp-content/uploads/2020/04/head.jpg)
《キリスト頭部》1939年
ハン・ファン・メーヘレン
ロッテルダム、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館蔵
こちらの作品は約4億円。
![](https://masaya-artpress.com/wp-content/uploads/2020/04/Isaac_Zegent_Jacob_Han_van_Meegeren.jpg)
《ヤコブを祝福するイサク》1941年
ハン・ファン・メーヘレン
ロッテルダム、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館蔵
こちらは約11億円。
![](https://masaya-artpress.com/wp-content/uploads/2020/04/VMeegeren-Last-Supper.jpg)
《最後の晩餐》
ハン・ファン・メーヘレン
レオナルド・ダ・ヴィンチも描いた主題『最後の晩餐』。
こちらの作品は14億円の値が付きました。
億万長者となった彼の生活は一変します。
酒とモルヒネに溺れ、次第に荒んでいきます。
絵を描く際もモルヒネがなければ描く事すらできない状態になっていました。
《キリストと姦婦》1942年
そんな状態でもメーヘレンはフェルメールの贋作を制作し続けます。
そして1942年、51歳の時に一枚の宗教画を完成させます。
![](https://masaya-artpress.com/wp-content/uploads/2020/04/無題df.png)
《キリストと姦婦》1942年
ハン・ファン・メーヘレン
メーヘレンはこの贋作の出来栄えに満足していませんでした。
酒と薬の影響でそれまでのものに比べて雑な仕上げになっていたのです。
ところがこの作品に目をつけた人物がいました。
ナチスドイツにおいて、ヒトラーに次ぐナンバー2だったヘルマン・ゲーリング最高幹部でした。
当時ヨーロッパで侵略と略奪を行っていたナチスドイツ。
フェルメール作品としてこの絵の購入を検討していた彼等に対して、「贋作」などとばれようものならメーヘレンの命はありません。
メーヘレンはゲーリングの目を欺くことはできたでしょうか。
パート3は一旦ここまで!
続きはパート4をご覧ください。こちら☚からご覧頂けます。
コメント
[…] 気になる所で(笑)パート2は一旦ここまでです。 この続きはパート3で!こちら☚からご覧頂けます。 […]
[…] こちらの記事はパート4で、パート3からの続きになります。 前回の記事はこちら☚からご覧頂けます。 […]