2025年10月27日にNHKにて放送された「木村多江の、いまさらですが…」の【蔦重と写楽が描いた歌舞伎の魂】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
イントロダクション
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
今回取り上げるのは、浮世絵師の東洲斎写楽です。
一度見たら忘れられない、インパクトある浮世絵を残した写楽ですが、その活動期間はわずか10か月ほどと短く(作品は全4期に分けられる)、謎の絵師とされてきました。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
しかし近年の研究で、その正体は徳島藩のお抱えの役者・斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763~1820)ではないか?いう説が有力になっています。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
そんな写楽に歌舞伎の大首絵を描かせたのが、現在大河ドラマで話題の蔦重こと蔦屋重三郎でした。
プロデュース力に長けた蔦重はいかにして写楽の浮世絵を世に広めたのでしょうか?
当時の江戸について
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
”江戸のメディア王”と呼ばれた蔦屋重三郎が生きた天明〜寛政期は、浮世絵黄金期でした。
蔦重自ら立ち上げた出版社・耕書堂から洒落本や浮世絵を発表、次から次へとヒット作を連発します。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
当時の江戸は人口百万人を誇る大都市で、これは同時代のパリやロンドンよりも多い人口だったといいます。
江戸は世界でも有数の発展をしていたのです。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
一方、政治はというと側用人兼老中の田沼意次が実権を握り、農業から商業を重視した政策に変わっていきました。
江戸の街の空気は自由な雰囲気と活気が満ちて、町人文化が賑わっていたのです。
東洲斎写楽の誕生
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
田沼意次治世の時代、吉原を舞台に活躍した蔦屋重三郎。
当時、吉原は”江戸の二大悪所”と言われる場所の一つでした。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
蔦重は当初、喜多川歌麿をプロデュースし、作品を発表していきます。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
歌麿の才能は吉原にとっても利益をもたらすものでした。
これは蔦重が好んだ「三方よし」の考え方にも合致しており、これは地域社会にも貢献するビジネスの形でした。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
しかし1786年、蔦重を取り巻く環境が大きく変化します。
田沼意次に変わり、松平定信が政治の実権を握りました。
田沼時代の自由な風潮から一変。
過剰な風気取締りや、倹約を押し付ける政策が始まります。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
この厳しい政策の中で、蔦重も目をつけられてしまいます。
1791年、出版した洒落本が発売禁止となり、財産の半分が没収されるという重い処罰を受けます。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
この危機的状況を脱するために、蔦重は歌麿に市井の美女や人気の遊女の大首絵を描かせます。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
蔦重プロデュースの歌麿作品は江戸の人たちのハートをつかみ、大ヒットとなります。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
しかしこの成功は予想だにしなかった事態を引き起こします。
歌麿の名声が上がり、それに目をつけた他の出版社からのオファーが歌麿の元に殺到したのです。
それにより歌麿と蔦重の間には距離が生じたとも言われます。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
そんな折に蔦重が美人画の他に目をつけていたものがありました。
それが”役者絵”です。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
当時の芝居町は、吉原と並ぶ二大悪所の一つとされていました。
また芝居町も、役者のギャラの高騰や江戸の大火の影響で厳しい経営状態でした。
今でいうブロマイドのような役者絵は歌舞伎人気回復の起爆剤、そして厳しい経営状況の打開策となるものでした。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
他の出版社からひっきりなしに仕事のオファーがくる歌麿。
そんな多忙な彼には仕事の依頼はできないと考えた蔦重は新たな絵師探しに奔走します。
その中の一人に勝川春朗(後の葛飾北斎)がいました。
何枚かの作品を勝川春朗に依頼しましたが、勝川派のスタイルから抜けきれず、蔦重はもっと新しい個性のある絵師を求めました。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
そんな中1794年の正月、強力なライバルが出現します。
それが新進気鋭の絵師・歌川豊国(うたがわ とよくに)です。
『役者舞台之姿絵』を発表し、たちまち大評判となりました。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
それまでの役者絵は細版というサイズで作られるのが普通でしたが、豊国は大判という一回り大きなサイズで役者絵を発表しました。
豊国はの浮世絵は役者の”一番かっこいい瞬間”を見事に写し取っていました。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
歌川豊国の登場に触発されたのでしょう。
蔦重は同年の5月、新人絵師に東洲斎写楽と名乗らせデビューさせます。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
豊国と同じ大判サイズで、役者の表情にフォーカスした大首絵を描かせます。
さらに背景には雲母摺(きらずり)で光沢を演出、全く新しい役者絵に仕上げました。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
そんな誰も見たことのない役者絵を、なんと28作同時に発表したのです。
写楽は華々しいデビューを飾りました。
蔦重は歌麿で吉原を助け、写楽で歌舞伎を盛り上げようとしたのです。
写楽が描いた「歌舞伎」の歴史
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
歌舞伎は世界に誇る日本の伝統芸能です。
ここからはその「歌舞伎の歴史」について見ていきます。
歌舞伎が誕生したのがおよそ350年前。
(ちなみに能のほうが歴史が古く、こちらは650年前です)
そもそも歌舞伎という言葉の語源は「傾き」とされていて、「真っ直ぐではない」や「正しい道から外れた」などの意味を含み、世間の権威や常識から反する者をカブキ者と呼びました。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
カブキ者が現れたのは徳川家康の時代。
時代が戦乱の世から天下泰平の世へと移り変わる頃でした。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
失業した武士の中から毛皮や覆面といった奇抜なファッションに身を包み、通りを闊歩する者たちが現れます。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
1603年には「カブキ踊り」の名が歴史資料に現れます。
その資料には出雲国の巫女の阿国が、京都でカブキ踊りをしたと書かれています。
その様子が京都国立博物館所蔵の《阿国歌舞伎図屏風》に残されています。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
派手なファッションに長い刀はまさに”カブキ者”そのものです。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
阿国の相手は狂言師の男性が演じた茶屋の女、つまり遊女です。
音楽に合わせて男装のカブキ者と、女装の茶屋の女が戯れるように舞ったのです。
この新しいエンタメは当時大ブームになり、熱狂の渦を生みます。
また、阿国一座の人気も高まっていきました。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
その後、実際の遊女たちが顔見世として茶屋の女を演じる遊女歌舞伎が流行します。
遊女歌舞伎では三味線が加わり、より華やかなものになっていきました。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
しかし遊女歌舞伎は1629年、風紀を乱すという理由で幕府から禁止令が出されてしまいます。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
そこで今度は元服前の美少年が女装して踊る若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)が台頭します。
ですが程なくしてこちらも禁止令が出されます。
画像出展元: テレビ番組「木村多江の、いまさらですが…」より
その後は成人男性だけで演じる野郎歌舞伎となり、演劇性を重視したものにシフトしていきます。
そしてその野郎歌舞伎が江戸歌舞伎につながっていくのです。
今回の記事はここまでになります。
パート2に続きます。

































