【ぶら美】ハプスブルク展《Ⅶ.皇妃エリザベトとフランツ・ヨーゼフ1世》

ぶらぶら美術・博物館

2019年11月19日にBS日テレで放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#327 国立西洋美術館「ハプスブルク展」】の回をまとめました。

番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。

前回のパート6(マリー・アントワネットの肖像)はこちらからご覧頂けます☟☟
【ぶら美】ハプスブルク展《Ⅵ.皇妃マリー・アントワネットの肖像》

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《薄い青のドレスの皇妃エリザベト(1831-1898)》ヨーゼフ・ホラチェク

ヨーゼフ・ホラチェク作、1858年、ウィーン美術史美術館蔵

画像出展:「ハプスブルク展」公式図録より

オーストリア・ハプスブルク家最後の栄光、最後の華やかな時代を飾ったのがこちらの皇妃エリザベトです。

美人ですね~😍

傍らのテーブルの上にはアーミン(白地に黒い点のオコジョの毛皮)のマントが置かれています。
これは王族を象徴するもので、ナポレオンマリア・テレジアの肖像などでもよく見かけられます。

また左手に着用しているブレスレットには、夫のフランツ・ヨーゼフ1世の肖像画が描かれています。
この時代、女性が配偶者の小さな肖像画をあしらったアクセサリーを身に着けるのは普通の事でした。

宝塚歌劇やミュージカルでも彼女を題材にしたものがあり、皇妃エリザベトは日本でも人気の皇妃です。
実際に当時のヨーロッパの王室の中では一番の美人と言われていました。
残っている写真からも分かる通り、盛って描かれたわけではなく正真正銘の美人さんでした。

 

画像出展:wikipediaより

エリザベトは自分に対して大変厳しい人でした。

ずっと同じ体型を維持するために、あえてきつめのコルセットを日常的に着用し、食事制限も徹底していました。
常に同じ体型で、身長172センチ・ウエスト50センチ・体重は50キロ以下であったといいます。
エリザベトは自らの容姿を磨くことに一日の大半を要したそうです。

悲劇の皇妃として

そんなエリザベト悲劇の皇妃としても有名です。

彼女はフランツ・ヨーゼフに見初められ16歳の若さでウィーンに嫁ぎますが、宮廷生活になじめず、また姑との確執があったりと苦労が絶えませんでした。

当初は国民からの人気もあり、皇妃としての務めも果たしていましたが、徐々に公務も放棄するようになっていきます。

次第にウィーンの宮廷から距離をとるように地中海地方に旅行に出かけたり、ハンガリーの宮殿を生活の拠点にしていました。
特にハンガリーに対する思い入れは人一倍深く、勉強嫌いの性格であったにも関わらず、ハンガリー語の通訳をこなせるまで勉強し、話せるようになったと言います。

 

エリザベトの息子ルドルフ

画像出展:wikipediaより

さらなる不幸は、エリザベト52歳(1889年)の時でした。
息子が不倫心中事件で自ら命を絶ってしまいます
以前は暗殺説もありましたが、近年は心中と考えられています。
(諸説あるようです)

悲しみに暮れたエリザベトは、息子の死後から自身が亡くなるまで常に喪服を着用して過ごしました。

そしてエリザベトも1898年、67歳の時に無政府主義者のルイージ・ルケーニの刃に倒れ、命を落としてしまいます。

《オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)の肖像》ヴィクトール・シュタウファー

ヴィクトール・シュタウファー作、1916年頃、ウィーン美術史美術館蔵

画像出展:「ハプスブルク展」公式図録より

その皇妃エリザベトの夫が、こちらのフランツ・ヨーゼフ1世です。

彼はとにかく在位が長かった事で有名で、18歳から亡くなる86歳までの68年間に及びました。
この肖像画が描かれたのは1916年なので、亡くなるその年の死の直前に描かれたものだと考えられます。

いわゆるウィーン世紀末ウィーンモダンクリムトエゴン・シーレが活躍した時代)もフランツ・ヨーゼフ1世の治世になります。

またウィーンの街が今のように整備されたのも、この時代になります。
街の周囲に建てられていた城壁を取り払い、そこにリンク通りを造ったり、ウィーン美術史美術館もこの頃建てられたりと、今日に繋がるウィーンの街を整備しました。

文化も発展し街も整備され、ウィーンはこの頃は大変良い時代でした。
しかし、1914年(この肖像画が描かれる二年前)に第一次世界大戦が勃発します
画中のフランツ・ヨーゼフ1世は、軍服に身を包んでいますがこれは大戦中である事を意味しているのでしょう。

息子のルドルフが1889年に不倫心中事件で自殺してしまったため、フランツ・ヨーゼフ1世の次の皇位は巡り巡って、甥にあたるフランツ・フェルディナントが皇太子となります。

しかし、サラエボで暗殺され(サラエボ事件)、それがきっかけに第一次世界大戦が始まります

結局フランツ・ヨーゼフ1世は第一次世界大戦の最中の1916年に86歳で亡くなります。
(第一次世界大戦の終戦は1918年)

一見すると味のある良い肖像画に見えますが、どこか「もうだめだ」感が感じられませんでしょうか。

息子を自分より早くに亡くし、第一次世界大戦が勃発した事を踏まえて彼の表情を見ると、
「わしゃ十分やったわい・・・」
とどこか疲れたような表情にも不思議と見えてきます。

第一次世界大戦の敗戦を機に、オーストリア=ハンガリー帝国とその君主制はなくなります。
フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア帝国最後の皇帝と言われることがありますが、じつは彼の死後に2年間だけ皇帝に就いた人物がいます。
それがカール1世です。

ハプスブルク家最後の皇帝

画像出展:wikipediaより

カール1世の統治機関が2年にも満たず、また敗戦処理ばかりさせられていたので、フランツ・ヨーゼフ1世実質的な「最後の」皇帝と捉える事もあるようです。

いかがでしたでしょうか。
ぶら美のハプスブルク展特集の回でした。

絵画の解説というよりも、世界史の勉強のようになってしまいましたが(笑)
最後までご覧頂きありがとうございました(*^-^*)

コメント

  1. […] パート6はここまでです。 パート7で最後、悲劇の皇妃エリザベトと皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に迫ります。 【ぶら美】ハプスブルク展《Ⅶ.皇妃エリザベトとフランツ・ヨーゼフ1世… […]

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