2020年5月16日にテレビ東京にて放送された「新美の巨人たち」の【「今こそアートのチカラを①」西洋美術で安らぎと勇気を!ミケランジェロ&ドラクロワ&モネ】の回をまとめました。
今回の記事はパート2、ドラクロワの《民衆を導く自由の女神》とモネの《睡蓮》についてまとめていきます。
(パート1ではミケランジェロの《ピエタ》についてまとめています。こちら☚からご覧いただけます。)
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
《民衆を導く自由の女神》ドラクロワ
《民衆を導く自由の女神》1830年
ウジェーヌ・ドラクロワ
ルーヴル美術館蔵
この作品は1830年に起きたフランス7月革命を主題にしています。
キャンバスからは革命の熱気が伝わってきます。
画面下部では戦いで息絶えた兵士が横たわります。
そこを剣や銃を手にした市民たちが突き進みます。
市民たちを率いているのは、画面中央で三色旗を掲げる自由の女神です。
フランス7月革命は、当時の国王シャルル10世の悪政に対して市民が立ち上がった革命です。
この民衆蜂起のドラマはこの《民衆を導く自由の女神》と共に今に伝えられてきました。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
バスティーユ広場はフランス革命の引き金となった牢獄があった場所です。
牢獄解体後に建てられた記念碑には、その”栄光の3日間”と呼ばれた革命の大切な記憶が刻まれています。
ウジェーヌ・ドラクロワ
《自画像》1873年
ウジェーヌ・ドラクロワ
ルーヴル美術館蔵
市民革命が勃発した時は銃の代わりに絵筆で革命に参加しました。
この《民衆を導く自由の女神》には、祖国への想いや愛情があふれています。
女神の姿
ここで民衆を導く女性に注目してみましょう。
なぜ彼女は大胆にはだけた服装をしているでしょう?
画家で美術史家のドミニク・デメ氏によると、女性の胸というのは母親をイメージするとの事。
つまりこの女神は”母なる大地”、すなわち祖国を表しているといいます。
「祖国のために戦い、自由を勝ち取ろう」というドラクロワのメッセージなのです。
また、ドラクロワにはもう一つ狙いがありました。
それは鑑賞者が一目見て、この女性が”女神”である事を認識させるということです。
女性のヌードというのは、神話に出てくる女神やヴィーナスにだけ許される表現でした。
実はこの時代はまだ一般女性のヌードを描くことがタブーだったのです。
逆に言うと、「裸の女性」が絵の中にいたならばそれは”女神”や”ヴィーナス”なのです。
この作品の原題(仏語:La Liberté guidant le peuple)を直訳すると「民衆を導く自由」となります。
フランスの人にとってはわざわざ”女神”と表記しなくても女性が女神だと分かりますが、日本人にはそのような発想がないので、観衆的に《民衆を導く自由の女神》とされているのです。
この作品に対する評価
革命の翌年にこの作品がサロン展に出品されます。
発表されるやいなやパリ市民からは絶賛されます。
ところが画壇からは激しい非難が浴びせられます。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
特にドラクロワと激しく対立したのがドミニク・アングルです。
アングル率いる当時の画壇は新古典主義が主流でした。
新古典主義とは
当時の画壇、新古典主義で重視された事が以下になります。
- 考古学的な正確さ
- 理性と倫理観
- 写実的で滑らかなタッチ
- 形式やデッサンが正確
- 色も同系色を並べる
- 安定した構図 など
《ドーソンヴィル伯爵夫人》1845年
ドミニク・アングル
フリックコレクション蔵
こちらはアングルの作品ですが、これこそが当時の絵画のお手本だったのです。
それでは《民衆を導く自由の女神》を描いたドラクロワの他の作品も見てみましょう。
《キオス島の虐殺》1824年
ウジェーヌ・ドラクロワ
ルーヴル美術館蔵
残虐な場面をあまりに劇的に描いたせいで、”絵画の虐殺”だと非難される事になりました。
描き方もアングルとは正反対といえます。
ロマン主義とは
ドラクロワは正確なデッサンより自分の感情やフォルム、色彩表現を重要視しました。
そんなロマン主義が重視したことは以下になります。
- ドラマチックな表現
- 激しい筆致
- 時事的題材
- 鑑賞者への衝撃や感動
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
こちらはドラクロワが愛用していたパレットです。
色彩への強いこだわりがあったのでしょう、色とりどりの絵具が置かれています。
《民衆を導く自由の女神》でも、トリコロールカラーの旗や女神の黄色い衣服などが効果的に使われています。
ドラクロワのその後
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
ドラクロワは真っ向からアングルのいるアカデミーと闘いました。
何度叩かれてもひるむことなく戦い続けた結果、1857年にはアカデミーの会員に当選するのです。
《民衆を導く自由の女神》はフランス絵画界にとっても革命だったのです。
《睡蓮》モネ
モネの庭
パリから北西に70キロ、ジヴェルニーという小さな村があります。
ここは印象派を代表する画家クロード・モネが作った庭、”モネの庭”が残されています。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
そこには色とりどりの花々と、柳や藤棚に囲まれた水の庭があります。
モネは睡蓮が浮かぶ池の揺らめき、そこに降り注ぐ光に心を奪われました。
画業の後半は移ろいゆく時間と光の表現を追求していきます。
《睡蓮》だけでもなんと300枚以上描きました。
オランジュリー美術館
画像出展元:wikipedia「オランジュリー美術館」より
パリにあるオランジュリー美術館。
元々はチュイルリー宮殿のオレンジ温室であったこの美術館は、主に印象派とポスト印象派の作品を展示しています。
このオランジュリー美術館にモネの晩年の集大成とも言える作品が展示されています。
『睡蓮』の連作
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
こちらの『睡蓮』の連作は楕円形の2つの部屋に分かれて展示されています。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
1部屋目には、睡蓮が浮かぶ池の水面を描いた作品が4枚展示されています。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
2つ目の部屋にも4枚の作品があります。
しかしこの1部屋目と2部屋目では描かれたテーマが少し異なっています。
2部屋目では柳などの樹木が加えられた池が描かれているのです。
計8枚の作品はすべて縦は2メートル、横幅は長いもので17メートルあります。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
その部屋にいるとまるでジヴェルニーのモネの庭にいるような錯覚に陥ります。
そこにはモネが仕掛けた構図のマジックがあります。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
例えばこの《柳のある明るい朝》では、手前に大きく柳が描かれています。
そして池に映る空と雲をぼかすことで、描かれていない部分を演出。
空間の広がりを表現しています。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
こちらの《緑の反映》では画面上部と下部で睡蓮の見るアングルを変えています。
こうすることで手前から奥に視線を移動した時に、あたかも池のふちに立っているような、そんな効果を生み出すのです。
モネはこの「睡蓮の部屋」では一枚一枚の作品をしっかりと見せる事よりも、空間としての芸術、いわばインスタレーション芸術としてこの作品を作ったのです。
「睡蓮の部屋」を作った理由
ではどうしてモネはこの「睡蓮の部屋」を作ったのでしょう。
そのきっかけは1914年に勃発した第一次世界大戦でした。
4年余りに及ぶその大戦は、人々に多くの傷痕を残しました。
モネはこの『睡蓮』の連作をフランス国家へ寄贈します。
それは第一次世界大戦の休戦協定が結ばれた翌日の事でした。
「悲しみに暮れる人々の心を癒したい」
この『睡蓮』の連作には、そんなモネの願いが込められているのです。
今回の記事は以上になります。
最後までご覧頂きありがとうございました。
コメント
[…] 《ピエタ》の記事はここまでです。 続くパート2ではドラクロワの《民衆を導く自由の女神》、そしてモネの《睡蓮》についてまとめていきます。 こちら☚からご覧いただけます。 […]
[…] *この作品については直近の記事でまとめたものがありますので、割愛させて頂きます。 ☟こちらからご覧ください。 【新美の巨人たち】ドラクロワ&モネ【今こそアートのチカラを】 […]