2022年1月4日にテレビ東京で放送された「開運!なんでも鑑定団」の【フランスを代表する巨匠 カミーユ・コロー】と【大正浪漫の画家 竹久夢二】についてまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
フランスを代表する巨匠 カミーユ・コロー

印象派の巨匠であるルノワールはこう語っている。
「コローは世紀の天才で、これまでで最も偉大な風景画家だよ。彼が描いた場所に身を置いてみた事がある。だが、彼に近づけた事は一度もない」

カミーユ・コロー(1796-1875)は19世紀フランスで活躍し、のちの印象派に大きな影響を与えた画家である。

1796年、パリの生まれ。

都会育ちのコローが自然に興味を持ったのは、パリから北西およそ120キロにあるルーアンの中学に通っていた11歳の頃。

ノルマンディーの田園を散策するうち、自然の素晴らしさに目覚め、風景画家を志すようになった。

1822年、26歳で新進気鋭の風景画家アシール=エトナ・ミシャロン(1796-1822)に師事。

古典的風景画を学び、徹底的に基礎を磨きながら独自の画風の確立に励んだ。

若きコローを虜にしたのが、パリの南東60キロにあるフォンテーヌブローの森である。

足しげく写生に出かけては、巨大な石が転がる特異な景観や、特徴的な枝ぶりの樫の木を何度も描いた。

このフォンテーヌブローの森には1830年代から40年代、ジャン=フランソワ・ミレーやテオドール・ルソーらが集まった。

彼らは森の開発に反対し、保護活動を行いながら、写実的な農民画や風景画に取り組んだ。
彼らは拠点とした村の名前から「バルビゾン派」と呼ばれたが、コローはその先駆けであった。

29歳になると長年憧れだったイタリアを旅行。コローは生涯に3度イタリア旅行をしている。

同じ場所に幾度も通っては、写生を繰り返し、優れた光の表現と色彩感覚を持って、ありふれた風景を詩情豊かに描き出した。

しかし1850年頃から画風に明らかな変化が現れる。

これまでの明快な輪郭と色彩を用いたのとは違い、”銀灰色”を基調とした、もやに包まれたような叙情性あふれる風景画を数多く制作。
この独特の銀灰色は”コロー色”と呼ばれたいへんな人気を博し、風景画家としての地位を確立したのであった。

60代半ばになるとリウマチが悪化。写生に出かける事が困難になると、コローはそれまで描き溜めたデッサンや記憶を頼りにアトリエでの制作が中心となった。

そこで誕生したのが『想い出』と題した一連の作品。

とりわけ《モルトフォンテーヌの想い出》』は1864年のサロンに出品され、皇帝ナポレオン三世によって買い上げられる。

銀灰色の朝の光の中で、若い女性と子どもたちが思い思いに花を摘み、木に掲げて遊んでいる姿が叙情的でもあり、幻想のようでもある。

コローはこのように語っている。

1875年2月、78歳で死去。
一生を絵に捧げ結婚せず、自らの絵を「子どもたち」と呼んだという。
カミーユ・コローの風景画

改めて依頼品を見てみよう。
カミーユ・コローの風景画である。
縦23.5cm、横18.5cmの油彩画で、中央には揺らめくような大木が立っている。

その根元に腰を下ろす人物と一頭の牛。
風が吹いているのだろうか。

全体がもやに包まれたようにぼんやりとしており、晩年の作を思わせるが…
果たして鑑定やいかに?
同時代の別人の作 30万円


30万円!偽物にしては、でも高額な…

「残念ですけど、カミーユ・コローの作品ではありません」

「コローと同時期にバルビゾン派で活動していた(別の)画家の作品。作家を特定するポイントがないので、”作者不詳の作品”としてこういう評価をさせて頂きました」

「コローの描き方とは明らかに異なる部分が、いくつかあるんです。
木の描写なんですけれども、葉先の部分でね、輪郭をとって筆を少し寝かせて、絵の具をキャンバスにかすらせるように塗って描いているんですよね」

「これもしコローが描くんでしたら、もう少し筆を立てて、より写実的に一枚一枚丁寧に描いていく」

「風がフワッて吹くと葉がサワサワって揺らめくようなそういう描き方がなされている、それがコローの作品なんですね」

「それと比べて見てしまうと、やっぱりこの作品は少し硬いかなと」

「それから人物の描写ですけれども、コローが描く人物というのは画面にもうちょっと同化させて、際立たせないんですよね」

「この白い絵の具の部分が際立って見える、この描き方はやっぱりコローの特徴ではないんですね」

今田耕司氏「もしこれが本物のコローの絵だったらいくらくらい?」
山村浩一氏「2,500万円はします。それだけ世界的に有名な評価の高い画家ですから」
大正浪漫の画家 竹久夢二

物憂げな女が黒猫を抱いている。
儚さと寂しさの美をまとって。

描いたのは大正ロマンを代表する画家、竹久夢二(1884~1934)。

夢二の美人画の原型は最初の妻・岸たまきである。

2歳年上のたまきは早稲田で絵葉書店を営む未亡人であったが、見初めた夢二は足繫く店に通い、出会いから3カ月ほどで結婚。

たまきをモデルにして描いたその絵は「夢二式美人」と呼ばれ、若者たちに熱烈に支持された。

わずか2年で離婚したものの、つかず離れずの関係を8年あまりも続け、結局3人の子をもうけた。

そんなたまきの暮らしを助けるために絵草子屋・港屋を開いたのは大正3年のこと。

夢二がデザインした小物を置くと、店には若い女性が頻繁に訪れるようになり、飛ぶように売れた。

客の一人に女子美術学校の生徒、笠井彦乃(かさい ひこの)がいた。
年の差は一回りもあったが、清楚で聡明な彦乃に夢二はたちまちのめり込んでいく。

道ならぬ恋と周囲から猛反対されるが、彦乃を「山」、夢二を「川」と暗号で恋文を送り合い、京都への逃避行までする始末。

しかし幸せは束の間で、父の手で実家に連れ戻された彦乃は結核を患い入院。
その後2人は二度と会う事はなかった。

夢二が終生追い求めたのは、永遠の女性像であろう。
いくつもの恋を重ね、理想と現実の間でもがき続けた夢二の絵は、自らの恋愛遍歴そのものであった。

昭和に入り世相が一変すると、夢二は新天地を求めアメリカへ。
ロサンゼルスにアトリエを構え、精力的に展覧会を開いた。

日系人による作品購入を当てにしたが、ほとんどが夢二の名前すら知らず、絵は売れなかった。

生活に窮した夢二に手を差し伸べたのは日系の文化人たちで、いつも腹を減らしていた夢二に飯をおごり、絵を売ることを手伝ってくれる者もいた。
しかし夢二はたまに絵が売れても計画性の無さから金はすぐに使ってしまう有様。

ただし絵に関しては新たな画風を模索し、特に油彩画に熱心に取り組んだ。

艶やかな舞妓は日本で描いた夢二式美人画とは色彩も筆致も全く異なる。
しかし愛する女のいない孤独と望郷の思いは抑えがたく…

《青山河(せいさんが)》は夢二がよく訪れた群馬の榛名山(はるなさん)を描いたものだが、「山」は生涯最も愛した彦乃を、

山に抱かれる「川」は夢二自身の姿を重ね合わせていたのかもしれない。

1年あまりのアメリカ滞在の後、ヨーロッパに渡った。

しかし芳しい成果は残せぬまま、肉体と精神だけが蝕まれていった。

ついには結核に倒れ、51歳で他界。

そして第二次世界大戦が勃発。
アメリカに渡った多くの日系人が強制収容所へと送られるなか、

夢二がアメリカで制作した作品の一部は、持ち主の日系人がアメリカの友人に託すなどして守られたという。
アメリカで発見した竹久夢二の油絵

改めて依頼品を見てみよう。竹久夢二の油絵である。
縦60cm、横50cmのキャンバスに、細身で虚ろな表情の女性が三味線を弾く様子が描かれている。

右上には「加州客中」とある。
カリフォルニアの旅の途中という意味であり、

その横に記されているのは、晩年に使った号、夢生(ゆめせい)のサインである。

現存する夢二の油彩は確認されているだけで20点ほどといわれ、本物なら大発見だが…
果たして鑑定やいかに!

今田耕司氏
「20点しかないんですか?」
福澤朗氏
「この番組でも竹久夢二の油絵・油彩は初めてなんですって」
大発見!2500万円


2500万!

「大発見ですね」

「大正時代に憂いを含んだ美人、いわゆる夢二式美人というもので一世を風靡しました」

「ただですね、この作品は印象がかなり異なります。非常に暗いです。体自身が背景の暗闇に沈み込むような、そんな印象を受けます」

「それからもう一つ、少し歪んだ口元。こういった表現は憂いを通り越してですね、夢二自身の心の闇、悲しみを表しているような雰囲気がします」

「そういった意味では非常に夢二の作品の中でも貴重なものですし、新しく油彩画が見つかるっていうことは、もうほとんど現在ではないので、重要な発見といえると思います」
今回の記事はここまでになります。

