2020年11月3日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#360 東京国立博物館「工藝2020」「桃山 天下人の100年」〜伝統と革新!世界に誇るニッポンの工芸と、狩野永徳、長谷川等伯…桃山時代のお宝美術が大集合!〜】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
特別展『桃山━天下人の100年』
東京・上野の東京国立博物館の平成館で2020年10月6日㈫から11月29日㈰まで開催される、特別展『桃山━天下人の100年』について今回はまとめていきます。
展示作品数は前後期通じて約230件。まさに”桃山”というイメージの世界を体感できる、ボリューム満載の展覧会です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
教科書的に見ると、桃山時代というのは、室町幕府の滅亡(1573)から江戸幕府の成立(1603)の間の30年間の事をいいます。
しかし桃山時代の文化や芸術という視点で考えますと、その始まりは室町時代の終わりから始まっており、且つ江戸時代の初めにもまだ残っているといいます。
ですので、展示される作品は室町時代の終わりから江戸時代初期にかけてのおよそ100年間の作品になります。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
美術は”時代の空気を写す鏡”とも言われており、時の権力者が変わるとともに美術の様式も変化していきました。
今回の展覧会は前期展示と後期展示で展示の多くが入れ替わっております。
番組で取り上げられたのは「前期展示」で、放送時はすでに「後期展示」となっておりますので、すでに展示が終了している作品もございます。ご留意ください。
《洛中洛外図屏風(歴博甲本)》
「洛中洛外図」は京都の中心部と郊外を描いたもので、室町時代末期から制作されるようになったと言われます。
まずご紹介するのはその「洛中洛外図」のなかでも、現存最古と言われるもので、国立歴史民俗博物館が所蔵するものです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
「歴博甲本」は”れきはくこうほん”と読みます。
描かれているのは室町時代末の京都のリアルな風景です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
描かれている建物の位置から様々なことが分かるといいます。
例えば、こちら屏風の真ん中部に描かれている将軍の御所。
この「柳の御所」があったの1525年以降である事から、この屏風が作られたのもそれ以降である事がわかるのです。
当時の京都の状態を知る上でも、洛中洛外図屏風は歴史的資料としての価値もあるのです。
ではこの屏風はどのようないきさつで描かれたのでしょう?
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
室町将軍は圧倒的な軍事力は持っていませんでした。
ですので守護大名たちのバックアップの元、いわば”守られた”室町将軍が天下を納めるという仕組みだったのです。
そしてその守護大名のなかで、当時一番力を持っていたのが、細川氏でした。
この《洛中洛外図屏風》当時の権力者である細川氏の発注によるものと考えられています。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
細川氏の理想とする京の町が描かれており、秩序と安定のある静かな京都が表現されています。
《洛中洛外図屏風(上杉家本)》狩野永徳
左隻
右隻
国宝《洛中洛外図屏風(上杉家本)》1565年
狩野永徳
山形県、米沢市上杉博物館蔵
狩野永徳が永禄8年(1565年)に完成させた『洛中洛外図』です。
この屏風は織田信長から上杉謙信へ贈られました。
しかし、この屏風が描かれた1565年当時の信長は未だ”尾張の一大名”に過ぎず、信長が発注したとは考えにくいといいます。
おそらくこの屏風の依頼主は、13代将軍の足利義輝ではないか?と言われています。
大河ドラマ「麒麟がくる」では向井理さんが演じていましたね。
しかし完成した頃には義輝は亡くなっており、そのような経緯から信長の元に渡り、上杉謙信に贈られたと考えられます。
さらに、この屏風の中には上杉謙信の姿があるといいます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらの籠に乗っているのが上杉謙信です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
この屏風ではちょうど上杉謙信が将軍の御所に今まさにやって来る場面を描いています。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
上杉謙信の前にいる馬は、「赤い鞍覆(くらおおい)」といい、室町将軍が使う特別なもので、謙信もまた貰っているといいます。
ではなぜ足利義輝は上杉謙信をこの屏風に登場させたのでしょう?
足利義輝はおそらくこの屏風に”ありうべき都”、「こんな都にしたい」という思いを込めたと考えられます。
それは守護大名らとの共同体で成り立つ都であり、それを謙信に支えて欲しいという願望が、御所にやってくる姿として表されたのかもしれません。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
ちょっと引いた所からこの屏風を見ますと、全体が金色に輝いて、また屋根が金の雲の間からまるで町が天に向かっているような印象を受けます。
永徳は質の良い絵具と質の良い金を使い、柔らかい輝きを表現しています。
一見ごちゃごちゃしていますが、品よく全体が綺麗にまとまっています。
永徳の素晴らしいバランス感覚が発揮された傑作です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
描かれている人数はおよそ2500人といわれています。
一人一人の描写もたいへん細かく、そこに暮らす人々のリアルがよく描かれています。
確かにやり取りが聞こえてきそうですね。
これぞ”桃山美術!”という感じがしますが、冒頭にも書いた通り描かれたのは室町時代末期です。
決して室町幕府が終わったのを合図に、このような”キンキラキーン!ゴージャス!”といった美術がでてきたわけではないのです。
桃山といえばの、信長・秀吉による成り上がり文化だから派手なものが好まれた、と言われることがありますが、必ずしもそうではないというのがこの屏風からも分かります。
《聚楽第図屏風》
《聚楽第図屏風》
安土桃山時代・16世紀
三井記念美術館蔵
「聚楽第(じゅらくだい)」とは、豊臣秀吉が京都の内野(平安京大内裏跡)に造営した政庁兼邸宅です。
豊臣家の権威を示す壮大な邸宅でしたが、わずか8年で壊されてしまいました。
当然現在もその姿はなく、その短さ故に不明な点も多いのが特徴です。
これまでは「洛中洛外図」として、京都の町が描かれましたが、この屏風では一つの対象、すなわち「聚楽第」をメインとしたものが描かれるようになるのです。
ここには秀吉の「私が造った、私の新しい町なんだ」という、いわば一種の自己顕示としての町の姿が表されるようになるのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
権力者が変わると描かれる美術も変わるというのがよく分かります。
今回のパート1はここまでです。
続くパート2では「ザ・桃山美術」、ライバル関係でもあった狩野永徳と長谷川等伯の作品を見てまいります。
こちら☚からご覧いただけます。
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[…] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧頂けます。 […]