【ぶらぶら美術・博物館】コンスタブル展⑤【美術番組まとめ】

ぶらぶら美術・博物館

2021年3月30日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#374 英国が誇る風景画の巨匠「コンスタブル展」〜印象派の先駆け!好敵手・ターナーと共演〜】の回をまとめました。

今回の記事はパート5になります。
前回のパート4はこちら☚からご覧いただけます。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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《草地から望むソールズベリー大聖堂のスケッチ》コンスタブル


《草地から望むソールズベリー大聖堂のスケッチ》1829年?
ジョン・コンスタブル
テート美術館蔵

画面中央左側に見える尖塔がソールズベリー大聖堂です。
コンスタブルの有名な作品の一つ《草地から望むソールズベリー大聖堂》、本作はその習作になります。


《草地から望むソールズベリー大聖堂》1831年
ジョン・コンスタブル
テート美術館蔵
*「コンスタブル展」の出展作品ではありません。

虹が出ていてすごくきれいな作品ですね!

ちなみに、ソールズベリーから北西に13キロ行ったところには、あの有名なストーンヘンジの遺跡があります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

描かれているソールズベリー大聖堂には、1386年に造られたイギリス最古の時計が現存しており、「時計好きは必ず行く所」と山田五郎さんはいいます。

この地にはコンスタブルの古くからの友人のジョン・フィッシャー大主教とその甥が住んでおり、特に妻マライアに先立たれて以降は、コンスタブルは心を癒すためにここを訪れていました。


コンスタブルには「自分の知っている所しか描かない、知っている所しか上手くは描けない」という考えがありました。
ですので、生まれ育った故郷を描いたり、このソールズベリーのように友人がいる地を描いているのです。

決して”名所だから描く”、”風光明媚な場所だから描く”というのではなく、”そこをよく知っていて、愛着がある”から描いていたのです。

《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》コンスタブル

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらが今回の『コンスタブル展』の目玉ともいえる展示です。
コンスタブルターナーが対峙した、1832年のロイヤル・アカデミー展の再現になります。


《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》
1832年発表
ジョン・コンスタブル
テート美術館蔵

縦130.8センチ、横218センチの大画面に描かれた大作です。
コンスタブル作品の中でも最大級のものになります。

絵のサイズや、絵具の塗り込み方から、「いかにして存在感をだそうか」という気合が感じられます。
解説の法政大学・荒川教授は「ちょっと力が入りすぎている」といいます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは今も現存するウォータールー橋、その開通式の様子を描いたものです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

これまでのコンスタブルの作品は「なんでもない田舎の風景」や「ロンドン郊外」といった、いわば都会の周辺を描いていましたが、この作品では初めてロンドンの都会のど真ん中の景色を描いています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

のちの国王ジョージ4世がいままさに乗船する様も描かれています。
描かれている船はお祝い用の船で、開通したウォータールー橋までテムズ川を行列で進む、という式典の場面です。

輝かしい祝祭の場面を描いた一枚ですが、そこには「あわよくば王室から庇護を受けたい、国王にパトロンになって欲しい」というコンスタブルの目論見もありました。

《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》ターナー

それでは一方のターナーの作品を見てみましょう。


《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》1832年
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
東京富士美術館蔵

コンスタブルの作品がかなり気合の入った大作だったのに対し、ターナーの方はよく見かけるターナーらしい作品です。

この両作が展示されていたのは、ロイヤル・アカデミーの展覧会のメインの展示室ではなく、脇の展示室でした。
ターナーはこの時メインの絵が別にあり、展覧会にも全部で4、5作出展していました。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

この《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》はメインではない、サブの絵ではありましたが、隣のコンスタブルの作品を見て、「何か少し迫力に負けるかな」と感じたのでしょう。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

展示会場でコンスタブルの作品をじっと見ていたターナーは、おもむろに赤い絵具を出して、その場で自分の作品に塗りつけました。

寒色系の静かな色合いの中に、突如真っ赤なブイが描き足されたのです。
これにより画面にコントラストが生まれ、赤一点のみで作品にインパクトをプラスしたのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

コンスタブルのあれだけ描き込んだ作品を見た後ならば、もう少し手を加えたくなるところですが、ターナーはこの1点だけで勝負に出たのです。

その光景を見たコンスタブルは、「ターナーがやってきて銃をぶっ放していった」と呟いたとか。
それくらいにコンスタブルに衝撃を与えたのです。

コンスタブルvsターナー」のこの勝負は、ターナーの方に軍配が上がったといえるでしょう。


コンスタブルは展覧会終了後にも、作品に手を加えています。

結局この作品も展覧会では買い手がつきませんでした

《虹が立つハムステッド・ヒース》コンスタブル


《虹が立つハムステッド・ヒース》1836年
ジョン・コンスタブル
テート美術館蔵

コンスタブル晩年(亡くなる前の年)に描かれた一枚です。
空に虹が浮かび、どこか幻想的な風景が広がります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

このハムステッド・ヒースは一面荒野だったので、描かれている風車は実際にはありません

コンスタブル妻マライアを亡くして以降、画風に変化が現れました。
見たままの風景をそのまま描くのではなく、それまで描き溜めたものを組み合わせて、実景ではない画面を作っていくようになります。

ある意味、クロード・ロランが描いていた「理想風景画」に戻ったともいえるかもしれません。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

コンスタブルの雪」と呼ばれた、白い点々がこの作品でも随所に見られます。


この作品を描いた翌年の1837年に、コンスタブルは60歳でこの世を去ります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

この作品はキャプションには「子ども達がテート美術館に寄贈」と書かれています。

生前作品があまり売れなかったため、コンスタブルの死後、作品は子どもたちに渡ります。
子どもたちは「父親の大切な作品」という事で、手元に置いて大事にしていました。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

コンスタブルの死から約50年経った1880年代後半に、一番長生きした子どもが、手元に残していたコンスタブル作品を全て国家に寄贈しました。

そのタイミングで初めて、コンスタブルの存在と作品が公になったのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

まとまった作品が美術館で公開されると、「こんなにすごい事をやっていた画家がいたのか!?」と認識されるようになっていったのです。

ここでやっと時代がコンスタブルに追いついたのですね!


一方のターナーは、自分が死んだら作品を国家に寄贈すると生前から決めていました。
ですので、死後すぐに多くの人が彼の作品を見る事ができたのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

コンスタブルは生前に作品も売れていませんでしたので、彼の死後はそもそも作品が知られていなかったのです。
1880年代後半に寄贈された時には、すでにフランスでは印象派が始まっており、一定の評価を得ていました。

コンスタブルの作品は「印象派の大本」として評価が高まり、今に至るのです。

いかがでしたでしょうか。
今回の『コンスタブル展』の記事はここまでになります。

最後までご覧頂きありがとうございました。

「ぶらぶら美術・博物館」のこの回以外の記事もアップしています!
こちら☚から一覧をご覧いただけますので、是非ご覧ください(*^-^*)

コメント

  1. […] 今回の記事はここまでです。 次のパート5ではコンスタブルとターナーの直接対決となった作品についてまとめていきます。 *こちら☚からご覧いただけます。 […]

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