【国立西洋美術館】プラド美術館展①【ぶらぶら美術館】

ぶらぶら美術・博物館

2018年3月9日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#262 “画家の中の画家”ベラスケス一挙来日!「プラド美術館展」~ルーベンス、ティツィアーノ・・・王室が誇るスペイン絵画黄金期の名画たち~】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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イントロダクション『プラド美術館展』

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

今回は東京・上野の国立西洋美術館2018年に開催された『プラド美術館展』についてまとめていきます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

プラド美術館はスペインの首都マドリードにある、1819年開館の国立美術館です。
作品所蔵数は絵画だけで7,000点以上を誇ります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

スペイン王家の至宝が並ぶ、まさに”美の殿堂”です。
そのコレクションの基礎を築いたのが、フェリペ2世とその孫のフェリペ4世でした。
今回の『プラド美術館展』ではフェリペ4世時代の作品が展示のメインとなっています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

そのフェリペ4世の宮廷画家として活躍したのが、《ラス・メニーナス》でお馴染みのディエゴ・ベラスケスです。
この展覧会ではベラスケスの作品が7点展示されていました。

スペインで一番偉い画家は誰か?」と言われれば、先ず名前が挙がるのがベラスケスだといいます。
そんな彼の作品は、いわばスペインにとって”国宝”のようなものなので、それが7点も一挙に来日するのは非常にすごい事なのです。

《東方三博士の礼拝》ベラスケス


《東方三博士の礼拝》1619年
ディエゴ・ベラスケス
プラド美術館蔵

この『東方三博士の礼拝』という主題は西洋絵画ではよく取り上げられるもので、ボッティチェリルーベンスなども描いています。
幼子イエスの生誕を祝して、東にいた3人の博士が貢物を持って訪れた場面を描いています。

ベラスケス20歳の頃の作品です。

二十歳でこのクオリティですか!
いやはやびっくりです!


ベラスケスは1599年、スペインの南のセビーリャに生まれます。
11歳で画家フランシスコ・パチェーコの弟子になり、その後17歳の頃には独り立ちをしています。
更に翌年には師匠パチェーコの娘・フアナと結婚しています。

一番出来の良い弟子が、師匠の娘と結婚するというのは当時よくあったといいます。

弟子の中でも格別で、解説の中野京子先生も「(師匠のパチェーコ自身が)自分よりも上手いと分かっていたんじゃないか」と言います。


描かれている聖母マリアは、ベラスケスの妻のフアナを、そして幼子イエスはベラスケスフアナの間に生まれた娘をモデルにしていると考えられています。

幼子イエスが可愛らしく描かれているのも、この作品の特徴の一つです。
普通は威厳を表すために、こんなに可愛く描かれることはありません。


こちらはルネサンス期のイタリアの画家、ボッティチェリが描いた《東方三博士の礼拝》の幼子イエスです。
赤ん坊の可愛さよりも、威厳を重視して表されているのが分かります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

そして三博士の手前の一人がベラスケス自身、その横の老年の男性が師匠のパチェーコをモデルにしていると考えられています。

なぜ家族をモデルにしたのか?

ベラスケスは神話画や宗教画を描く時でも、実在の人物をモデルにする事で、リアルな表現を目指したのです。
「聖家族」という主題でありながら、普通の人のように見える、このリアリズムこそ”ベラスケスの革新性”なのです。

宗教画をあまり描かなかったベラスケス

ベラスケスはその後、フェリペ4世の宮廷画家となりますが、以降宗教画はほとんど描かなくなります

宮廷画家といえば、宗教画を沢山描きそうなイメージですが。

じつはベラスケスの家系はキリスト教の家系ではありませんでした
ベラスケスの祖父にあたる人物が、ポルトガルからのコンベルソ(キリスト教に改宗した元ユダヤ教徒)だったのです。

まだこの時代は異端審問の時代でしたので、キリスト教に改宗したコンベルソといえど、「本当はユダヤ教を信じているのではないか?」と疑われる事があったのです。
宮廷に入ったベラスケスは祖父がコンベルソである事を、ひた隠しにしたと考えられています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

フェリペ4世はそのことを知った上で、ベラスケスを宮廷画家に迎え入れたのでは?」と中野先生は言います。

もしそうだったとしても、ベラスケスの中には、「フェリペ4世が亡くなった後、どうしよう」という思いがあったかもしれません。
この事はベラスケスの隠れたコンプレックスとして、生涯彼の中にあったのです。

そんな背景もあり、ベラスケスはほとんど自分の事は語っておらず、日記なども残していないのです。

今回の記事は以上になります。
続くパート2の記事では、そのベラスケスが仕えたフェリペ4世の肖像画について見てまいります。
こちら☚からご覧頂けます。

コメント

  1. […] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧頂けます。 […]

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