2023年11月11日にフジテレビにて放送された【光の画家モネを追いかけて~芳根京子パリへ行く】の内容をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
印象派とは
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
19世紀の終わり、絵画に革命をもたらした印象派。
当時の伝統に抗い、光や対象の新しい方法で表現した若い画家たちのグループです。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
当時まだ若かったドガやルノワールらが活躍しました。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
その中でも中心的存在だったのがクロード・モネでした。
《睡蓮》や《日傘の女》などの傑作がよく知られています。
展覧会『モネ 連作の情景』
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
東京・上野の森美術館で2024年1月28日まで開催の展覧会『モネ 連作の情景』。
ここで展示作品の一部をご紹介します。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
こちらはモネの作品では珍しく黒を基調とした大作です。
最初の印象派展が開かれるその約5年前に描かれた初期の作品です。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
こちらはさらにそれよりも前の時代の作品。
この頃のモネは自らの作風を模索していました。
伝統的な様式を踏襲し、セーヌ川沿いを行き交うパリ市民を描いています。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
展示作品の全てがモネの作品のこの展覧会。
国内外の美術館から集められた約60点の作品を堪能することができ、初期から晩年までの画業の変遷も見ることができます。
モネの前半生
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
モネは1840年、フランス・パリで生まれます。
5歳の頃にはル・アーヴルというフランス北部の町へ移ります。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
※『モネ 連作の情景』の出展作品ではありません
モネは青年時代から、その才能を発揮していました。
当時描いていたのが”カリカチュア”と呼ばれる風刺画です。
モネはこのカリカチュアを売って、お金を稼いでいました。
そんなモネが油絵を描き始めたのは、とある画家との出会いがきっかけでした。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
その画家とはウジェーヌ・ブーダンです。
モネより16歳年上のブーダン。彼は空や海をテーマにした作品を数多く描き、「空の王者」と評されました。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
ブーダンに油絵を描くのを誘われたモネ。
モネは当初その誘いを渋っていたといいますが、ブーダンの描く風景画を見て衝撃を受け、自らも油絵を描くようになります。
モネは自身の手紙の中で「自分が画家になれたのはブーダンのおかげ」と残しているほどです。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
ブーダンは戸外制作を得意としていました。
”外で絵をえがくこと2。
これ自体は今では当たり前のことのように思われますが、この時代より前の頃には考えられないことでした。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
なぜ”戸外制作”が新しかったのか。
それはこの時代になってチューブ入り絵の具が出回るようになったからです。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
元々絵の具というものは、アトリエの中で顔料を混ぜ合わせるところから手作りされていて、持ち運びができるものではなかったのです。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
油絵を描き始めたモネは、生活の拠点をパリへと移します。
しかし画家生活は順風満帆な始まりではありませんでした。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
※『モネ 連作の情景』の出展作品ではありません
この時代、画家として認められる唯一の方法は、国が主催する展覧会サロン(官展)に入選することでした。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
当時、入選する基準の一つだったのが絵の表面を筆跡が残らないように滑らかに仕上げることでした。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
※『モネ 連作の情景』の出展作品ではありません
こちらはモネの作品を拡大したものですが、水面の表現が絵筆が残る状態で描かれています。
こういったタッチは、当時の人の目には”未完成の絵”として映ったのです。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
※『モネ 連作の情景』の出展作品ではありません
モネも初期の頃は、伝統的な様式に則り作品を描いています。
こちらの《カミーユ(緑衣の女)》は後の妻となるカミーユをモデルにした作品です。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
この作品は1866年のサロンで入選を果たします。
批評家からも良い評価を得ることができました。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
※『モネ 連作の情景』の出展作品ではありません
その翌年、2年連続入選を目指して発表したのが《庭の女たち》。
自信満々のモネでしたが、この作品は入選することができませんでした。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
モネはこの作品で影の色彩や光の反射を素早いタッチで表しています。
この新しい表現が、旧態依然としたサロンでは認められなかったのです。
モネは自身の芸術が認められないことを目の当たりにして、意気消沈してしまいます。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
そんなモネに転機が訪れます。
それは普仏戦争の戦火から逃れるために渡ったロンドンでのことでした。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
※『モネ 連作の情景』の出展作品ではありません
イギリスを代表する風景画家・ターナーの作品と出会うのです。
自分の画風を模索するモネにとって、この出会いは一つの道しるべとなりました。
そしてフランスに戻ったモネは印象派の記念碑的作品を描くのです。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
※『モネ 連作の情景』の出展作品ではありません
それが《印象・日の出》です。
絵の舞台はモネが少年時代に育った街、ル・アーヴルです。
色調が渾然一体となった画面は、煙突から吐き出された煙ともやに包まれています。
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
その名の通り、”瞬間の印象”を切り取った傑作。
しかし、発表当時の評価は良いものではありませんでした。
《印象・日の出》を所蔵するマルモッタン・モネ美術館のエリック・デマジエール館長は次のように話します。
「《印象・日の出》を見た当時の批評家は『印象しか描けていない半端な作品』ととらえ、モネたちのことをからかって「印象派」の画家と呼んだのです」
画像出展元:テレビ番組「光の画家モネを追いかけて」より
当時としては前衛的だったことで、画壇や批評家から拒絶された印象派の作品でしたが、やがて市民から受け入れられ、その地位を獲得していくようになっていくのです。
こうした中でモネも独自の表現へと進んでいきます。
今回の記事は一旦ここまでです。
パート2へと続きます。