2020年10月17日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【青騎士 新しい美を模索した芸術家集団】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
イントロダクション
今回取り上げるのは『青騎士』と呼ばれる芸術家集団です。
ドイツ語で「ブラウエ・ライター」といいます。
『青騎士』は20世紀の初めのドイツ・ミュンヘンで、革新的な芸術家たちによって作られたグループです。1911年に結成され、画家たちは新しい美を模索しますが、その活動は数年で終わってしまいます。
しかし彼らの活動は20世紀芸術の先駆けとして、後世の画家に多大な影響を及ぼしました。
画家ワシリー・カンディンスキー
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866-1944)はロシア出身の画家で、抽象絵画の創始者と言われる人物です。
そのカンディンスキーが中心となって作られた芸術家集団が「青騎士」です。
カンディンスキーは元々、法律家を目指してモスクワ大学で学んでいました。
しかし30歳の時にクロード・モネの『積み藁(わら)』に衝撃を受け、画家になる事を決意。ミュンヘンに向かうのです。
《印象Ⅲ(コンサート)》カンディンスキー
《印象Ⅲ(コンサート)》1911年
ワシリー・カンディンスキー
レンバッハハウス美術館蔵
この作品は「青騎士」が結成された1911年に描かれました。
カンディンスキーがコンサートから受けた印象を表したものです。
画面中央に見える黒い塊はグランドピアノで、手前に見えるのは単純化された観客です。
カンディンスキーは色彩それぞれに意味があると考えていました。
ピアノの下のオレンジ色は力強いアルトの歌声を、左上の赤色は情熱的なチューバの響きを表しているといいます。
右側から手前にかけて広がる黄色は、コンサートホールに響き渡る音の波です。
音楽とカンディンスキー
カンディンスキーにとって音楽は重要なものでした。
この作品を描いた1911年、カンディンスキーは作曲家アルノルト・シェーンベルクのコンサートを鑑賞しています。
シェーンベルクはそれまでの決まり事を超えた音楽で、当時センセーションを巻き起こしていました。
そんな彼の奏でる音楽は、カンディンスキーにとって躍動する色彩に見えました。
この体験は「色彩だけで人を感動させることができる」という確信を、カンディンスキーに与えます。
「描く対象に捉われない絵画とは何か」
それを模索していった彼にとって、大きなヒントとなったのです。
そしてその体験を元に描かれたのが《印象Ⅲ(コンサート)》でした。
しかしカンディンスキーの斬新すぎる作品は、画家仲間からさえも理解を得られませんでした。
彼は当時所属していた芸術家団体を脱退しています。
そんな中で彼を強力に擁護した画家がいました。
それがフランツ・マルクです。
画家フランツ・マルク
フランツ・マルク(Franz Marc、1880-1916)はドイツの画家で、カンディンスキーよりも14歳年下です。
マルクは1880年に風景画・風俗画を描く父のもと、ミュンヘンに生まれます。
当初は神学と哲学を学んでいましたが、20歳の時にミュンヘンの美術アカデミーに通い始め、本格的に絵画に取り組むようになります。
《青い馬Ⅰ》1911年
フランツ・マルク
レンバッハハウス美術館蔵
こちらはフランツ・マルクの代表作の一つ《青い馬Ⅰ》。
マルクはこのような動物を描いた作品を数多く残しました。
主役である馬は単純化されたフォルムで描かれています。
カンディンスキーほど抽象的には描かれていませんが、背景は風景などではなく、色彩をメインに構成されています。
また”青色の馬”というのも本来、自然界には存在しません。
マルクは”青”という色が、”男性的”でありかつ”精神的なもの”を示すと考えて、この色を用いました。
フランスに留学経験のあるマルクは、そこでゴッホの作品と出会いました。
ゴッホの強烈な色調と、ありのままではない色使いに衝撃を受けます。
そしてマルクはカンディンスキー同様に色彩一つ一つに意味があるという考えに至ります。
画家アウグスト・マッケ
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」
行動を共にするようになったカンディンスキーとマルク。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」
そしてそこに加わったのがマルクの友人のアウグスト・マッケでした。
《トルコ風カフェ》1914年
アウグスト・マッケ
レンバッハハウス美術館蔵
こちらの《トルコ風カフェ》、旅先で見た北アフリカの情景を描いた一枚です。
マッケもカンディンスキーやマルクと同じく、色彩が持つ力によって、これまでにない絵画を生み出そうとしました。
キャンヴァスには北アフリカを彷彿とさせる強い陽射しが表されています。
ドアのオレンジ色や壁の青色。
人物は黄緑色の装いに赤い頭部
マッケは鮮やかな色彩で画面を構成し、且つそれらが対立するように配置しています。
それでいながら画面から受け取る印象は落ち着いたものになっています。
これも色彩の実験の成果といえるでしょう。
芸術年刊誌『青騎士』創刊
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
カンディンスキー、マルク、そしてマッケ。
この3人は1912年に芸術年刊誌『青騎士』を発表します。
『青騎士』は西洋絵画のみならず、アフリカの民芸品や音楽までも取り上げ、そこに共通して見られる”芸術の本質”を探ろうとしました。
そして「青騎士」名の元に展覧会も開催します。
そこにはスイス出身のパウル・クレーも参加しました。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
クレーの独特の画風と繊細な色遣いは、日本でも人気があります。
彼がこの画風に辿り着いたのは、「青騎士」との出会いがきっかけでした。
20世紀の美術界を担う画家が「青騎士」の旗の下に集結したのです。
第一次世界大戦と『青騎士』
「青騎士」が結成されてから3年後の1914年、第一次世界が勃発。
画家たちも戦地に赴くことになります。
開戦からわずか2か月の1914年9月、マッケが27歳の若さで戦死します。
さらに1916年にはマルクまでもが36歳で命を落としました。
敵国であるロシア人のカンディンスキーもドイツから国外退去を迫られスイスに亡命。その後祖国ロシアへと戻るのです。
こうして「青騎士」は短いその活動を終えることになるのです。
ヒトラーと青騎士
第一次世界大戦後、台頭してきたナチス・ドイツのヒトラーは「青騎士」の作品を嫌いました。
彼らの作品そのものが存続の危機にさらされるのです。
ヒトラーは元々画家を目指していましたが、ウィーン美術アカデミーの受験に失敗しています。
その後権力を手にしたヒトラーは、自分が理解できない芸術、特に前衛芸術に関しては容赦なく排除する姿勢を取ります。
作品を燃やしたり、「退廃芸術展」という展覧会の名のもと、見世物にしたりしました。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
そんなヒトラーから作品を守った人物がいました。
それが「青騎士」にも参加していた画家のガブリエレ・ミュンターです。
彼女はカンディンスキーのパートナーでもありました。
愛する人の作品を守った、勇気ある女性です。
デューラーとクラーナハ
青騎士が活躍したおよそ400年前、同じドイツで活躍した二人の画家がいました。
それがアルブレヒト・デューラー(1471-1528)とルーカス・クラーナハ(父)(1472-1553)
二人は同時代、北方ルネサンスで活躍しました。
年齢も一つ違いという事でよく比較される2人は『「剛(ごう)」のデューラー』と『「柔(じゅう)のクラーナハ」と呼ばれていました。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
デューラーのしっかりとした手堅い画風。
彼は23歳の頃にイタリアに行き、ルネサンスに直に触れました。
その後故郷に帰り、イタリアで得たものを彼自身のスタイルにすべく創作していきます。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
クラーナハの特に女性の官能的な描写に長けていました。
33歳の頃にはザクセン選帝侯の宮廷画家となり、そこから3代の選帝侯に仕えていました。
ドイツ・ルネサンスを生み育てた二人の巨匠。
当時の状況を考えると、この二人の巨匠も青騎士同様、革新的な存在といえます。
今回の記事はここまでになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!