【アートステージ】夭折の天才画家・青木繁【美術番組まとめ】

アート・ステージ

2020年1月25日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【青木繁 明治を駆け抜けた夭折の天才画家】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。

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青木繁とは

青木繁(1882-1911)

画像出展:wikipediaより

代表作《海の幸》で知られる明治時代に活躍した洋画家、青木繁

西洋画が日本に入ってきた間もない明治期に活躍し、数々の傑作を残すも、28歳の若さで亡くなった伝説的な画家です。
洋画で日本神話を描くなど、独自のアプローチで作品を残しました。

狂気の天才」などと呼ばれ、傍若無人な振る舞いもあったようですが、画家として大成したいという志を抱いていました。

今回は夭逝(ようせい)の天才画家が残した独創的な傑作と、彼の半生についてまとめていきます。

《海の幸》青木繁


《海の幸》1904年
青木繁
重要文化財
石橋財団アーティゾン美術館蔵

青木繁の代表作、《海の幸》。
教科書で目にした事のある方も多いのではないでしょうか。

実は日本の洋画で初めて、重要文化財に指定された作品です。

描かれているのは、漁を終えて帰る漁師たちの姿です。
平面の絵画ですがタッチが深く、まるで彫刻のような存在感で描かれています。

人だけでなく魚も、そのずっしりとした重みが伝わってくるようです。
漁師たちが手にしているモリは直線的で、画面にリズム感を与えています。

漁師たちの気迫と臨場感に溢れたこの作品は、まるで目の前で行われている光景にも見えますが、じつは青木自身この光景を目の前にして描いたわけではありません

この作品が描かれたのは1904年、青木が22歳のとき。
美術学校を卒業して間もない頃で、画家仲間と千葉の館山を訪れていました。

この《海の幸》はその時の友人が見た光景を伝え聞いた青木が、自分の想像で描いたものです。
その筆は速く、下書きさえも残したままで、ものの一週間で描き上げたと言います。

画面から満ち溢れる迫力から、かなり大きなサイズの作品のように思われますが、実は高さ70センチ、横幅180センチというサイズなのにも驚かされます。

この作品は当時の人たちにはどのように見えたのでしょうか。

《天平の面影》藤島武治


《天平の面影》1902年
藤島武治
重要文化財
石橋財団アーティゾン美術館蔵

こちらは青木繁と同じく明治初期に活躍した画家、藤島武治の作品です。

《海の幸》の2年前に描かれたこの作品は、当時の画壇において手本とも言える作品でした。
このような写実的な作風が主流であったのです。

それを踏まえて《海の幸》を見てみますと、未完成とも取られかねない状態で発表したのは異例の事態と言えます。

青木繁の半生


《自画像》1904年
青木繁
東京藝術大学大学美術館蔵
*《海の幸》と同じ年に描かれた自画像

1882年、青木繁は福岡県久留米市に武士の息子として生まれました。
「学問によって身を立てて欲しい」という父の願いの元、厳格な教育を受けて育ちました。

そんな青木にとって絵を描くことが、唯一の息抜きでした。

16歳で学校を中退すると、画家になるために単身上京します。
上京後は、小山正太郎の画塾「不同舎」に入門。
さらに翌年には、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の西洋画科に入学します。

青木の師となったのは、洋画界の重鎮、黒田清輝でした。
黒田が教授に就任したのが1898年、青木が入学する二年前の事でした。

フランス・パリで本場の洋画を学んだ黒田は「外光派」と呼ばれる画風を確立し、日本の洋画界に大きな変革をもたらそうとしていました。
そんな黒田の影響を受けながら、青木はヨーロッパの最新絵画を学んでいきます。


《水車小屋》1882年
エドワード・バーン=ジョーンズ
ヴィクトリア&アルバート博物館蔵

青木が特に影響を受けたのが、イギリスで19世紀末の活動したラファエル前派の画家たちでした。

なかでもエドワード・バーン=ジョーンズの神秘的な作風に彼は心酔しました。
海の幸》が横長の画面の理由は、バーン=ジョーンズからの影響だとも言われています。

《わだつみのいろこの宮》青木繁

美術学校の学生だった頃、青木繁が絵画と同じく夢中になったものがあります。
それが「読書」でした。
時間ができれば図書館に通い、日本のみならず世界中の神話を読み漁りました。

青木は様々な書籍を読んでいくなかで、「古事記」の世界に魅了されます。


《わだつみのいろこの宮》1907年
青木繁
重要文化財
石橋財団アーティゾン美術館蔵

《海の幸》に並ぶ、青木のもう一つの代表作《わだつみのいろこの宮》。

「古事記」に登場する海幸彦(うみさちひこ)と山幸彦(やまさちひこ)の物語をテーマにした作品です。

名前の通り海の漁が得意な兄の海幸彦と、山の狩猟が得意な弟の山幸彦がいました。

ある時、山幸彦は兄の海幸彦から借りた釣り針をなくしてしまいます。
山幸彦はそれを捜しに海へと潜り、海底にある海の宮殿にたどり着きます。
そこで海の神の娘の豊玉姫(とよたまひめ)と出会い、結ばれるというお話です。

青木の作品を見てみましょう。
画面上部に腰かけているのが山幸彦です。
そして画面左側で山幸彦と視線を交わす赤い服の女性が豊玉姫です。
恋に落ちた瞬間のように、頬はバラ色に染まっています。
そして傍らに立つ青い服の女性は侍女です。

青木はこの作品に持てる全てを注ぎ込んで取り組みました。
彼は若くしてその才能を認められましたが、「狂気の天才」などと呼ばれ、身勝手な振る舞いや激しい性格が災いして画壇から冷遇されていたのです。

海の幸》で評価を得た青木は、同じ「」というテーマで起死回生の望みをかけたのです
作品を発表すると有識者からは好評で、あの夏目漱石も自身の作の「それから」の中でこの作品について触れています。

青木はこの作品を博覧会に発表しますが、結果は三等賞の末席で、上から数えて23番目でした。
その結果に彼はひどく落ち込んだと言います。

そして更なる不幸な知らせが舞い込みます。
父親が危篤に状態になってしまいます。
青木は故郷である久留米へ戻ります。

以後青木は3年間放浪生活を送り、ついに東京には戻ることは無く、1911年に28歳の若さでこの世を去ります。
死因は肺結核でした。
海の幸》で評価を得たものの、生前は大きく評価されることがなく人生の幕を降ろしてしまったのです。

亡くなってからおよそ60年後の1969年に、本作《わだつみのいろこの宮》は重要文化財の指定を受けます。

アーティゾン美術館

さて、今回ご紹介しました青木繁の《海の幸》と《わだつみのいろこの宮》。
そして藤島武治の《天平の面影》は現在開催中の展覧会で見る事ができます。

特に《海の幸》はこれまで青木繁の故郷、福岡県久留米市の石橋美術館に所蔵されていましたが、今は東京の美術館に移されています。

それが東京・京橋のアーティゾン美術館(元ブリヂストン美術館)です。
3月31日まで開催の展覧会「開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地」で公開されています。

前身の「ブリヂストン美術館」は1952年(昭和27年)にオープンしました。
2015年にビルの建て替え工事に伴い休館し、そこから5年弱の工事期間を終え、名称を変更し2020年にオープンしました。
展示スペースはこれまでの2倍です。

今回の開館記念展では、ルノワールマネメアリー・カサットといった巨匠たちの作品を見る事ができます。
日時予約制となっておりますので、行かれる方は事前にご確認をお願い致します。

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