2020年12月6日にNHKで放送された「日曜美術館」の【いつもそこに“名画”があった】の回をまとめました。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
今回は1930年に、日本初となる西洋画を常設展示する美術館として誕生した、岡山県倉敷市の大原美術館についてまとめていきます。
モネやピカソ、セガンティーニといった西洋画の名だたる巨匠たちの作品が展示されています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
美術館を設立したのは、倉敷の実業家の大原孫三郎(1880-1943)、そしてそれを後押したある画家の思いがありました。
今回は開館から90年間、人々の心に寄り添い続けた大原美術館の歴史についてまとめていきます。
《和服を着たベルギーの少女》児島虎次郎
《和服を着たベルギーの少女》1911年
児島虎次郎
大原美術館蔵
大原美術館に入ると、まず出迎えてくれるのがこちらの作品です。
ベルギーの少女が和服を着ているという、なんとも和洋折衷なこちらの作品。
和と洋の美しさの両方が見事に表現されています。
じつはこの絵を描いた画家こそ、大原美術館の設立のきっかけになった人物でした。
だから入り口入ってすぐの所にある訳ですね!
児島虎次郎の生涯
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
その画家の名は、児島虎次郎(こじまとらじろう、1881-1929)です。
明治に生まれ、昭和初期まで活躍しました。
岡山で旅館を経営する児島家の次男として生まれ、跡取りとして期待されますが、画家の道へ進みます。
21歳で東京都美術学校の西洋画科に入学します。
その成績は非常に優秀で、2度の飛び級するほどだったといいます。
その頃、同じ岡山で一つ年上の大原孫三郎と出会います。
そのきっかけは、大原家主催の奨学金を得るためでした。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
児島は大原家から高い評価を得、ヨーロッパへの留学を実現します。
ベルギーのゲントで、当時の西洋の最新の絵画を学びました。
こちらの作品は、児島が留学中に描いたものです。
少女の顔の部分は細やかなタッチを重ねて描かれていますが、着物の部分は対照的に躍動感あふれるタッチで描かれています。
この作品で児島はパリのサロンへ初入選を果たします。
彼がヨーロッパに渡ったのは27歳の時でしたが、それまでに本場の油絵を見た事はほとんどなかったといいます。
「日本で画家を志す人間が、本場の作品を見るにはどうすれば良いだろうか」
大原孫三郎への作品購入の依頼
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
そう考えていた児島はある一枚の絵に出会います。
アマン=ジャンは、フランスの画家でサロンの重鎮的存在でした。
この絵に一目ぼれした児島は、大原孫三郎に手紙を書きます。
その手紙には「個人的な依頼としてではなく、日本の芸術界のために(作品を購入して欲しい)」と書かれていました。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
大原は突然の依頼に戸惑いますが、購入資金を送りました。
しかし児島からの絵画購入の依頼は、それ以降も続きます。
その為に大原は「虎次郎のためになるのであれば」と言い、小切手を送り続けました。
児島虎次郎とモネ
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
資金を得た児島は更に絵画収集に力をいれていきます。
ジヴェルニーにあるモネの邸宅を訪れては、直接モネに作品の購入を打診します。
その時には日本のボタンの苗木を手土産に持っていき、モネを口説き落としたと言われています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらのモネの《睡蓮》は児島が直接選んで購入したものです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
そして帰国した後、収集した作品27点で展覧会を開きます。
会場は倉敷の小学校でした。
この時代の日本には、展覧会や美術館もない為、西洋の絵画を見る機会はありませんでした。
そんな物珍しさもあり、この展覧会には日本中から見物客が押し寄せたといいます。
近隣の人だけではなく、東京からも見に来た人がいるほどの盛況振りで、駅から会場の小学校まで大行列になっていたという記録も残っているほどでした。
これには資金提供をした大原もたいへん驚いたといいます。
児島虎次郎の死、大原美術館設立へ
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
コレクションは大原の援助を受け、その数を増やしていきました。
そんな矢先、児島が47歳の若さでこの世を去ります。
大原は美術館の建設を望んでいた児島の意志を受け継ぎ、その設立に着手します。
時は金融恐慌の真っただ中で、大原の会社も決して楽な状態ではありませんでした。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こうして1930年に「大原美術館」が開館を迎えるのです。
この大原美術館の作品は、個人コレクションが元にはなっていますが、大原孫三郎は自分の部屋に作品飾ったりした事はなかったといいます。
作品はあくまで「みんなのため」というスタンスで、非常に強い「公共精神」があった事が伺えます。
そこに児島虎次郎の「美術に対する目」があって、大原美術館ができたのです。
今回のパート1の記事は以上になります。
パート2へと続きます。
こちら☚からご覧いただけます。
コメント
[…] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧いただけます。 […]