【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展②【美術番組まとめ】

ぶらぶら美術・博物館

2019年9月24日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#322 東京ステーションギャラリー 没後90年「岸田劉生展」】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。
前回のパート1はこちらからご覧頂けます☟☟
【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展①【美術番組まとめ】

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《B. L.の肖像(バーナード・リーチ像)》(1913年)


《B.L.の肖像(バーナードリーチ像)》1913年(21歳)
岸田劉生
東京国立近代美術館蔵

バーナード・リーチは、日本の民藝運動にも参加したイギリス出身の陶芸家です。
また、デザイナーや画家としても活躍しました。

この肖像画が描かれた当時、劉生は21歳、バーナード・リーチは26歳でした。

これで20代!?

渋すぎるでしょ!

明るい陽射しの中で描かれていますが、帽子の影のせいで目の表情が見えません。
穏やかなタッチで描かれており、どことなくポール・セザンヌを彷彿とさせます。
これまでの作品と描き方も変わってきています。

バーナード・リーチは幼少の頃に日本で4年間過ごし、帰国します。
その後ロンドン美術学校で高村光太郎と出会い、それがきっかけで1909年に来日します。

そして1911年に白樺展の会場で岸田劉生と出会い、交流が始まります。
やがて劉生バーナード・リーチから強い影響を受けていきます。

アルブレヒト・デューラー

劉生が影響を受けたのは、イギリスで活躍した詩人で画家のウィリアム・ブレイクや、バロック時代の巨匠レンブラント、更には北方ルネサンス画家デューラーです。
特にデューラーの得意とした細密描写に強い影響を受けました。

日本の洋画界というのは、黒田清輝が先ず印象派の画風を日本に持ち込みました。
一番最初に入ってきたのが「印象派」だったので、それより前の古典絵画(ルネサンス)は抜けてしまっていたのです。
これはいうならば、基本をすっ飛ばして、いきなり応用編から入るようなものです。

そんな中、バーナード・リーチ劉生にこのような古典絵画の大切さを教えました。

またこの頃劉生は肖像画も数多く描きました。
来る人来る人、誰しもの肖像画を描いたため、周囲から「岸田の首狩り」などと言われるほどでした。

《自画像》(1913年)


《自画像》1913年(22歳)
岸田劉生

ここでもまた画風の変化が見られます。特徴としては、筆致が細かくなっていくという点が挙げられます。
写実的に、そしてよりリアルになっていきます。

それまでは「劉生の首狩り」と言われるほど、自分以外の人を写生してきた劉生は、なぜ自画像を描くようになったのでしょう。

劉生は22歳の時に結婚して、妻の実家で暮らし始めます。

妻の実家という事で、なかなか自由に友人を招くことができなくなり、結果自画像が増えていきました。

僕はてっきり「自己の内面」を見つめる、的な

カッコイイ理由だと思ってました。

この作品はちょうど結婚した年(1913年)に描かれた作品です。

妻・岸田蓁


《画家の妻》1915年
岸田劉生
岡山県、大原美術館蔵

こちらは劉生が妻を描いた作品です。

馴れ初めは、奥さんとなる岸田蓁(きしだ しげる)さんがヒュウザン会の展覧会を見に来たことがきっかけでした。
なんと、そこで奥さんの方から劉生にファンレターを書いたとの事。
当時としてはたいへん珍しい、積極的な女性だったようですね。

岸田蓁自身も明治時代に活躍した鏑木清方(かぶらき きよかた)に入門しており日本画を描いていました。
そういったバックグラウンドもあり、劉生の絵の凄さを理解していたのです。

黒き土の上に立てる女》という作品では、画風がさらに変化し、ルネサンス期を思わせるものになっていきます。
元々は《農夫の姫》というタイトルでしたが、変更され《黒き土の上に立てる女》となりました。
籠を片手に持ち、土の上に立つその姿は「豊穣の女神」を彷彿とさせます。

この作品は結婚の翌年の1914年の制作で、後に代表作のモデルとなる愛娘・麗子さんが生まれた年でした。
この時の妻は、まだ出産して三か月経ったくらいの時期という事もあり、「妻」から「子供を産んだ母親」へ変わったという意味も込められているかもしれません。

じつはこの《黒き土の上に立てる女》は、1961年に雑誌に掲載されたのを最後に、長い間行方不明になっていました。
しかし現在は似鳥美術館(北海道小樽市)に収蔵されています。

お値段以上、でおなじみの

あの「ニトリ」さんですね。

最初は水彩画、そして印象派のようなタッチから始まり、
黒田清輝の外光派の油絵を学び、
ヒュウザン会の頃になるとゴッホやマティスの影響を受けて、
そしてさらにさかのぼりルネサンス期の作風へと、様々に画風を変化させていった劉生。

彼がいかに探求心溢れる画家だったのかがよく分かります。
周囲からは「時代と逆行している」と揶揄されることもあったようですが、そんな声には目もくれず、自身の芸術を追求していくのです。

パート2はここまでです。
パート3へと続きます☟
【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展③【美術番組まとめ】

コメント

  1. […] パート1は一旦ここまでにします。 パート2へと続きます。 【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展②【美術番組まとめ】 […]

  2. […] 見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。 前回のパート2はこちらからご覧頂けます☟☟ 【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展②【美術番組まとめ】 […]

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