2021年3月6日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【クリムト 世紀末 愛と官能の画家】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション
19世紀末、時代が大きく動いたこの時代。
オーストリアの首都ウィーンでは、「ユーゲント・シュティール」という様式が誕生します。
「ユーゲント・シュティール」は新しい芸術動向で、「青春様式」とも呼ばれました。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
そしてその流れの中で生まれたのが、「ウィーン分離派運動」でした。
「ウィーン分離派運動」はそれまでの保守的な伝統芸術から分離し、新しい表現を求めた芸術運動です。
今回取り上げるグスタフ・クリムトはその運動の中心的存在でした。
世紀末という混迷な時代を生きた彼は伝統に立ち向かい、独自の作品を追求しました。
今回はそんなクリムトの生涯と、彼の作品についてまとめていきます。
クリムト:誕生~分離派以前
クリムトの活躍した時代は”世紀末ウィーン”とよく呼ばれます。
彼はまさに世紀末、19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけて活躍した画家です。
彼は1862年にウィーン郊外のバウムガルテンに彫金師の子として生まれました。
奨学金を得て、14歳で工芸美術学校に入学します。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
卒業後には、同じく画家の弟エルンストや友人のフランツ・マッチュと、壁画などの劇場の装飾を制作する仕事をはじめます。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
当時のウィーンは都市開発の真っただ中で、「リング計画」と呼ばれる大通りが造られていました。
それに伴い、劇場の建設などインフラ設備も整えるため、芸術家には多くの仕事の場が与えられました。
クリムトはリング計画の一環で建てられたブルク劇場やウィーン美術史美術館の壁画を手掛けています。
またブルク劇場の天井画については、時の皇帝フランツ・ヨーゼフから勲章を与えられています。
《旧ブルク劇場の観客席》1888年
グスタフ・クリムト
ウィーン・ミュージアム
ウィーン市議会から依頼され制作した、こちらの《旧ブルク劇場の観客席》では、第一回の皇帝賞を受賞。
クリムトの名を世に知らしめる作品になりました。
《水蛇Ⅰ》
《水蛇Ⅰ》1904/1907年
グスタフ・クリムト
ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵
絵画の制作にも力を入れ始めたクリムトが、その初期から取り上げたのが「女性の官能美」です。
こちらの《水蛇Ⅰ》は、女性の官能美、そして同性愛的傾向がよく表れています。
長い金髪の女性が恍惚の表情を浮かべています。
その胸にはこちらに背を向けている、同じ髪の色の女性が抱き寄せられています。
抱きあう二人の背後には、ウロコが特徴的な水蛇が泳ぎます。
また足元には金色の水草が漂っています。
ここから二人のいる場所が水中である事が分かります。
「エロティシズムで退廃的」
まさにクリムトらしい作品です。
一見、大画面の作品のように見えるこちらの作品。
じつは縦が50センチ、幅は20センチしかありません。
とてもそんなサイズの絵に見えないですね!
また使われている技法も、水彩絵具・テンペラだけでなく、貼り絵なども用いられている、非常に珍しい作品です。
クリムト:分離派結成~脱退まで
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
装飾家、そして画家としても名を挙げ始めたクリムト。
彼は1894年にウィーン大学講堂の天井画の注文を受けます。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
しかしクリムトが表現したのはそれぞれの学問を賛美するものではなく、まるでその学問の限界を示すようなものでした。
「大学の天井画としてふさわしくない」とトラブルに発展します。
このウィーン大学天井画騒動のさなか、1897年には若手の芸術家たちが「ウィーン分離派」を結成します。
クリムトはその初代会長を務めました。
ウィーン分離派は、それまでの旧態依然とし、古典的な美術を守ろうとするオーストリア芸術家組合からの”分離”を目的としていました。
1898年に開催された第一回ウィーン分離派展は大成功を収めます。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
しかしその後、1902年に分離派展に発表した『ベートーベン・フリーズ』が不評を呼び、グループ内でも”クリムト擁護派”と”批判派”に割れていしまいます。
やがて『ベートーベン・フリーズ』から3年後の1905年、クリムトはウィーン分離派を脱退するのです。
《接吻》
《接吻》1908-1909年
グスタフ・クリムト
ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵
クリムトの最も有名な作品《接吻》は、ウィーン分離派を脱退した後に描かれました。
ウィーン分離派を脱退したという事は、ウィーン分離派館を手放す事、ひいては展示場所を失うことでもありました。
この《接吻》は1908年に開催された「クンストシャウ」という展覧会で展示されます。
クリムトは同展に代表作16作を出展しましたが、その展示の中心となったのがこの《接吻》だったのです。
クリムト自身もこの作品が重要な位置づけになるという事を、発表当初から強く自覚していたのです。
描かれているモデルは、クリムトと彼の恋人エミーリエ・フレーゲと言われています。
クリムトとエミーリエは結婚はしませんでしたが、生涯のパートナーでした。
男性の首から上と手、女性の顔と足と腕の一部分は生身の肌が描かれていますが、それ以外ほとんどの部分は金色で装飾的に描かれています。
2人の衣装もそれぞれの性を象徴する柄で描かれており、男性の方は長方形、女性の方は丸い模様が描かれています。
快楽の花園の上で寄り添い接吻をする二人。
しかし女性の足元は絶壁になっています。
これには「愛と死は隣り合わせである」という意味が込められていると考えられます。
2人の背景は金色の世界が広がります。
クリムトはこの作品のように、金色を多用した頃があり「黄金の時代」と呼ばれました。
クリムトは日本の琳派からの影響を受けて、金箔を用いるようになったといわれます。
フランスの印象派が日本美術、特に浮世絵から影響を受けたのと同じく、クリムトもまた日本美術から多くの影響を受け、自身のスタイルを確立していったのです。
《接吻》の背景は金箔を貼ったかのような正方形の跡が見られますが、じつはこれは絵筆を使って金箔に見えるように描かれたものです。
自ら金箔に見えるようにしたという点から、クリムトの金へのこだわりが感じられます。
この作品で見られるエロチシズムは日本の春画から、また平面的な構成は浮世絵からそれぞれ学んだものといわれています。
日本的な要素が多い作品。だから日本人は潜在的にこの作品に惹かれるのかもしれませんね。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
困難の時代に発表された《接吻》は、それまでの批判的な流れから打って変わって、絶賛をもって迎えられました。
《メーダ・プリマヴェージの肖像》1912年
グスタフ・クリムト
メトロポリタン美術館蔵
その後クリムトは「黄金の時代」をやめ、色彩を用いた作品を描いていきます。
さらに風景画も手掛けるようになりました。
世紀末という激動の時代を生きたクリムト。
それまでに伝統に抗い、独自の芸術を作り上げた彼は、1918年に55歳で亡くなりました。
今回の記事はここまでです。
最後までお読みいただきありがとうございました。