【美術番組まとめ】三菱の至宝展①【ぶらぶら美術・博物館】

ぶらぶら美術・博物館

2021年8月10日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#382 まるで国宝展?! 三菱一号館美術館「三菱の至宝展」~奇跡の茶碗、国宝「曜変天目」が登場!刀剣に俵屋宗達、東方見聞録も~】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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イントロダクション

今回は東京・三菱一号館美術館で9月12日まで開催の『三菱の至宝展』、こちらについてまとめていきます。
曜変天目》をはじめとする国宝が12点重要文化財が31点が展示されています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

三菱を創業した岩崎家。
その初代社長から第4代までの歴史とコレクションした作品を見ていきます。

初代社長は岩崎彌太郎(いわさき やたろう)です。
次の第2代社長岩崎彌之助(いわさき やのすけ)彌太郎の弟にあたる人物です。

第3代社長から子供の代へと移ります。
岩崎久彌(いわさき ひさや)初代社長彌太郎の息子で、その次の岩崎小彌太(いわさき こやた)第2代社長彌之助の息子です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

展覧会の収蔵作品のほとんどは、静嘉堂文庫美術館東洋文庫のものです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

静嘉堂文庫美術館第二代社長の彌之助が創業し、第四代社長の小彌太が拡充しました。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

東洋文庫第三代社長の久彌によって設立されました。

なぜ日本美術を収集したのか?

岩崎家の人たちは、主に古美術古典籍を収集しました。
しかし岩崎家の人々が活躍した時代は、明治に入って西洋のものが数多く入ってきた時代でもあります。

当時のお金持ちなら、そちら(西洋美術)を収集しそうですが…

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

この時代、明治政府は西洋諸国に追いつくために積極的に海外の文化を取り入れていました。
それにより、日本のこれまでの文化や芸術は蔑ろにされていったのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

さらに廃仏毀釈の影響により、貴重な仏像や美術品が二束三文で売りに出され、海外に流出する危機がありました。

岩崎家の人たちはそれまでの日本文化を守るために、積極的に古美術や古典籍を収集したのです。

初代社長 岩崎彌太郎

まず初めに、三菱創業者であり初代社長の岩崎彌太郎(いわさき やたろう)について見ていきます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらがその岩崎彌太郎の銅像です。
作者は明治に活躍した彫刻家の大熊氏廣(おおくま うじひろ)です。

大熊氏廣は東京国立博物館・表慶館の前にある『阿吽のライオン』や、靖国神社にある『大村益次郎像』を手掛けた人物です。

その大熊氏廣を支援していたのが岩崎家でした。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

岩崎彌太郎は1870年に後の三菱商会となる、九十九商会(つくもしょうかい)を設立します。

彌太郎は50歳と若くして亡くなってしまい、あとの二代から四代のような大規模なコレクションを築く事はできませんでした

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

彌太郎は庭園の趣味がありました。
彼はかつて大名庭園だった六義園清澄庭園を購入し、復興しています。
(後に息子で第3代社長の久彌が東京市に寄贈)

第二代社長 岩崎彌之助

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

美術品の本格的な収集を始めたのが、第二代社長岩崎彌之助(いわさき やのすけ)でした。
彌之助は明治になって失われつつあった古美術や古典籍を収集し、静嘉堂を築きました

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

また彌之助は、漢学者である重野安繹(しげの やすつぐ)の歴史編さん事業を支援するために、数多くの図書を収集します。これが静嘉堂文庫となるのです。

文庫としての側面と、美術品収集の側面の両方があるのです。

《唐物茄子茶入 付藻茄子》

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらの《唐物茄子茶入 付藻茄子》は、彌之助が収集した作品の一つです。

「唐物」とあるように中国から伝わったものです。
また形が賀茂茄子(かもなす)に似ていることからこのように呼ばれています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

唐物茄子茶入 付藻茄子》(以下付藻茄子)は、幾多の戦火をくぐり抜け、また天下人の手を渡ってきた名品でもあります。

中国から伝わったのち、最初の所有者となったのが足利義満でした。
その後各地を転々とした後、戦国時代になり松永久秀が織田信長に献上します。

そしてあの本能寺の変の際にも信長は付藻茄子を持っていたと記録が残っています。
信長は明智光秀に討たれますが、付藻茄子は焼け跡から奇跡的に見つかり豊臣秀吉の手に渡ります。

さらに秀吉亡き後、今度は大阪夏の陣で戦火に見舞われますが、この時は被害を受け付藻茄子はバラバラになってしまいます
その破片は徳川家康の命により拾い出され、修復が施されたのち、現在の状態になっているのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

見た目では全くといっていいほど分からない状態ですが、レントゲンで撮影するとばらばらだった痕跡が見えるといいます。

そして明治に入り、彌之助の手に渡るのです。

第三代社長 岩崎久彌

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

彌之助の跡を継いで第三代社長に就任したのが岩崎久彌(いわさきひさや、初代社長・彌太郎の長男)です。

久彌はたいへんな愛書家で、漢籍(中国の文学)を収集していました。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは久彌が収集した、中国・唐時代の詩人の杜甫(とほ)の詩集です。
中国で刊行されたものを、日本で復刻したものです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

大きい字の部分が杜甫の詩で、小さい字の部分が注釈になっています。
杜甫の詩について、色々な人が注や解釈を書いているというものになります。

今回の記事は一旦ここまでになります。
続くパート2では第4代社長の岩崎小彌太と、彼が収集した国宝《曜変天目についてまとめていきます。
⇒【国宝《曜変天目》】三菱の至宝展②【ぶらぶら美術・博物館】

コメント

  1. […] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧いただけます。 […]

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