2019年11月19日にBS日テレで放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#327 国立西洋美術館「ハプスブルク展」】の回をまとめました。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。
前回のパート4はこちらからご覧頂けます☟☟
【ぶら美】ハプスブルク展《Ⅳ.ホロフェルネスの首を持つユディト》
《皇妃マリア・テレジア(1717-1780)の肖像》マルティン・ファン・メイテンス(子)
《皇妃マリア・テレジア(1717-1780)の肖像》1745-1750年頃
マルティン・ファン・メイテンス(子)
ウィーン美術史美術館蔵
マリーアントワネットの母親として知られる、マリア・テレジアの肖像画です。
オーストリアでは、彼女のことを「国母」、国の母と呼び、オーストリア史で最も重要で人気の高い統治者とされています・
マリア・テレジアは1736年に夫のロートリンゲン公フランツ・シュテファンと結婚します。
その4年後の1740年に父親のカール6世が亡くなると、3つの地位を引き継ぎます。
それが、
- オーストリア大公
- ボヘミアン女王
- ハンガリー女王
の3つです。
画面右側に3つの王冠が描かれていますが、これがその3つの王位を表しているのです。
マリア・テレジアは「女帝」?
よくマリア・テレジアを言い表す言葉で「女帝」というワードが用いられます。
「女帝」とは文字の通り、女性の皇帝の意味です。
けれども実は彼女自身は皇帝の立場になっていません。
この当時、女性は神聖ローマ皇帝にはなれなかったのです。
じつは神聖ローマ帝国の皇帝自体は、夫のフランツ1世です。
マリア・テレジアはあくまで皇妃であり、共同統治者というのが正しいです。
ただこれはあくまで立場上の話で、実態としては「女帝」といえる存在感があったのです。
理由としてはマリア・テレジアがハプスブルク家の血を引いている一方、夫のフランツ1世はフランスの小国の出身ということもあり、マリア・テレジアの方が政治的権力を持っていた、ということが挙げられます。
マリア・テレジアが行った政治改革
マリア・テレジアは義務教育制度を確立しました。
さらには病院の建設や、税制・行政の改革を行い、国を内側から強くしていく事に尽力しました。
ハプスブルク家の夏の離宮として使われたシェーンブルン宮殿も、国民に本当に素晴らしい建築を見せたいという思いから、マリア・テレジアが着手したものです。
画家マルティン・ファン・メイテンス(子)について
マルティン・ファン・メイテンス(子)は1695年、スウェーデンのストックホルムに生まれました。
同名の父親のピーテル・マルティン・ファン・メイテンスから絵の手ほどきを受けました。
画家の名前の最後に(子)とついているのは、父親と全く同じ名前、且つ同じ画家という職業だったので、どちらの作品か区別するために付けられています。
マルティン・ファン・メイテンス(子)はヨーロッパ各地を転々としながら画家としての仕事をしていましたが、1731年36歳の時にオーストリアに居を定めました。
王室の家族にも気に入られ、マリア・テレジアの治世初期の最も重要な肖像画家として認められました。
また、晩年にはウィーン美術アカデミーの校長にまで出世をしています。
パート5はここまでです。
なんだか世界史の授業みたいになってしまいましたね(笑)
パート5ではいよいよ《マリーアントワネットの肖像》についてまとめていきます。
【ぶら美】ハプスブルク展《Ⅵ.皇妃マリー・アントワネットの肖像》
コメント
[…] といったところでパート4は一旦ここまでです。 パート5≪マリア・テレジアの肖像≫へと続きます。 【ぶら美】ハプスブルク展《Ⅴ.皇妃マリア・テレジアの肖像》 […]
[…] 見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。 前回のパート5(マリア・テレジアの肖像)はこちらからご覧頂けます☟☟ 【ぶら美】ハプスブルク展《Ⅴ.皇妃マリア・テレジアの肖像》 […]