2021年1月9日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【レオナルド・ダ・ヴィンチ ミラノで開花した天賦の才】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
今回はレオナルド・ダ・ヴィンチのミラノでの活躍についてまとめていきます。
イントロダクション
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
イタリア北部にあるミラノは、中世以来、商業都市として発展してきました。
長い歴史と洗練された文化のあるこの街は、”万能の天才”と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチと深い縁があります。
誰もが知る傑作《最後の晩餐》。
じつはこの作品は美術館に収められているのではなく、この街の修道院の壁画として今も残されているのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
それがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院です。
《最後の晩餐》
《最後の晩餐》1495-1498年
レオナルド・ダ・ヴィンチ
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院
《最後の晩餐》は、当時のミラノの事実上の支配者であるルドヴィーコ・スフォルツァの注文を受けて、レオナルドが修道院の食堂の壁に描いた、全長約9メートルにも及ぶ大作です。
描かれているのはキリストと12人の使徒たちです。
それまでの『最後の晩餐』は、キリストと使徒たちが円卓を囲うように描かれていました。
登場人物全員を横並び描いたレオナルドの作は、かなり異質なものでした。
「お前たちの中の一人が、この私を裏切ろうとしている」とキリストが話したその言葉に、使徒たちがざわめいています。
彼らの「驚き」や「戸惑い」といった感情がこちらにも伝わってくるかのようです。
使徒の顔にはそれぞれ様々な感情が伺えます。
レオナルドは使徒たちを3人一組にする事で、多様な感情の中に統一性を生み出しました。
そして左から5番目、銀貨の入った袋を手にする男が、キリストを裏切るユダです。
レオナルドは様々な人物を描き分けるために、街ゆく人々を次々にスケッチしたと言われています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
レオナルドの徹底したリアリズムの追求は、人体解剖にも及びました。
彼の手稿には、人体の素描が数多く残されています。
レオナルドの科学的な探求心が、作品に活かされているのです。
また《最後の晩餐》で描かれる聖人には、光の輪(光輪)が描かれていません。
これも彼のリアリティへのこだわりなのです。
遠近法も非常に正確に描かれており、この作品を目の前にすると壁の奥に部屋があるような錯覚が生まれるといいます。
科学的に厳密な遠近法により、トリックアート的な効果が生まれているのです。
《最後の晩餐》には科学の知見が総動員されているのです。
レオナルドの生涯
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
レオナルドはフィレンツェの西にあるヴィンチ村に生まれました。
(名前の「ダ・ヴィンチ」とは”ヴィンチ村の出身”であることを意味しています)
その後14歳でフィレンツェに出て、当時を代表する画家であるヴェロッキオの元に弟子入りします。
ここでレオナルドは絵画だけでなく、彫刻・建築・工芸なども学びました。
《キリストの洗礼》
ヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチの共作
こちらは師弟の共作である《キリストの洗礼》という作品です。
レオナルドはこの作品で画面一番左の天使を描いたといわれています。
レオナルドの類まれな才能を見抜いた師匠ヴェロッキオはその実力に驚愕し、絵を描く事を辞めたとさえ言われています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
レオナルドは30歳になると、さらなる飛躍を求めてミラノに出ます。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
そこでミラノの君主スフォルツァ公と出会い、様々な仕事を任されます。
スフォルツァ公はその浅黒い肌から「イル・モーロ(ムーア人)」と呼ばれていました。
レオナルドの手掛けた仕事は多岐に渡り、大聖堂の設計から騎馬像の制作、さらには祝祭パレードのプロデュースなど、芸術家の域を超えた幅広い活躍を見せます。
《岩窟の聖母》
《岩窟の聖母》1483-1486年頃
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ルーヴル美術館蔵
続いてご紹介する作品は、現在ルーヴル美術館に収められている《岩窟の聖母》という作品です。
キリストを捕えようとするヘロデ王から逃れて、岩窟で身を寄せ合う聖母子とヨハネ、天使を描いたものです。
薄暗い洞窟を舞台に、中央に聖母マリアが慈愛に満ちた表情で座ります。
向かって右側に見えるのは、幼子イエスと天使です。
イエスは右手で祝福のハンドサインをつくっています。
このハンドサインは《ヘントの祭壇画》など色々な作品で見られますね。
向かって左側に見えるのが、幼い洗礼者ヨハネです。
この作品は人物の描写だけでなく、背景の岩や足元の植物も繊細に描かれているのも見どころです。
登場人物を三角形の構図の中に描かれ、安定感をもって表現されています。
しかしレオナルドはただ単に美しいから、という理由でこの構図にしたわけではありません。
レオナルドは三角形という調和のとれた形で、”生命の繋がり”を象徴しているのです。
2枚の《岩窟の聖母》
《岩窟の聖母》1506/08年頃
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
じつはこの《岩窟の聖母》には、ほとんど同じ絵がルーヴル美術館の他に、ロンドンにも存在しています。
なぜ同じ絵が2枚も存在するのでしょう?
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
ルーヴル版の方が最初に描かれましたが、それが注文主である教会から受け取りを拒否されてしまいます。
そこで描き直したのが、ロンドン版になるのです。
2つの作品を並べて見てみますと、ルーヴル版は《最後の晩餐》同様に聖人を表す光輪が描かれていません。
さらにアトリビュートと呼ばれる聖人を表す持ち物(パウロであれば剣、ペテロであれば鍵など)も描かれていません。
通常であれば、洗礼者ヨハネは十字架を持った姿で描かれるのです。
科学的なリアリティーにこだわったレオナルドの作品は、旧態依然とした教会には受け入れられなかったのです。
レオナルドと絵の注文主との争いは、その後10年以上に及び、最終的にはレオナルドが弟子と共に同じ絵を描くという事で決着します。
そこで描かれたのが現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある《岩窟の聖母》なのです。
ですのでロンドン版には光輪やヨハネの十字架もきっちりと描かれています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
その後最初に描かれた方の《岩窟の聖母》は、ミラノを占領したフランス王ルイ12世の元に渡り、現在の所蔵先であるルーヴル美術館へと納められるのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチのエピソード
レオナルドは幼少の頃から様々な事に興味を持っていました。
雷が落ちるところを見ようとして吹き飛ばされたり、空を飛ぼうと羽根を作って崖から飛び、骨折したりもしています。
今でこそ私たちのレオナルドのイメージといえば、しわしわのおじいちゃんですが、若い頃はイケメンでかなりモテていたようです。
モデルや役者もこなし、芝居の演出まで手掛けていました。
さらには音楽、建築、数学から天文学などあらゆる学問学ぶほか、兵器の開発も行っています。
その学習意欲は晩年になっても衰えず、還暦目前で名声を得た頃でも、20代で大学教授となった若い解剖学者に弟子入りを志願したという記録が残っています。
そんな謙虚な姿勢こそ、彼が「万能の天才」と呼ばれる由縁かもしれません。
レオナルドは「絵画は最高の芸術である」という言葉を残しています。
絵画にはあらゆる情報を盛り込むことができ、さらにそれを発信し続ける事ができると考えたのです。
今回の記事は以上になります。
最後までご覧頂きありがとうございました。