2020年2月4日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#336 「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢」展】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。
「モダンデザイン」とは?
先ずは今回の展覧会の名称にもなっている「モダンデザイン」とは何かから説明していきます。
今回の展覧会で言う「モダンデザイン」とは、1930~60年代のデザインの事を指します。
それ以前の明治・大正の頃は職人が図面を使わずに手作業で工芸品を作るというのが普通でした。
それが昭和に入り、大衆のために、工場で生活用品が次々に大量生産されるようになります。
その大量生産のためのデザインが「モダンデザイン」という事です。
展覧会は5章で構成されており、生活用品や工芸品などおよそ160点が展示されています。
今回の展覧会では、そのデザインのルーツを明らかにすると共に、日本の建築界、そしてデザイン界に非常に大きな影響を与えた7名の作品や資料を紹介する展覧会となっています。
その7名は、
ドイツ人建築家のブルーノ・タウト
チェコ出身の建築家アントニン・レーモンド
その妻でインテリアデザイナーのノミエ・レーモンド
日系アメリカ人の家具デザイナーのジョージ・ナカシマ
彫刻家のイサム・ノグチ
そして日本人の井上房一郎と剣持勇です。
先ずは、ブルーノ・タウトからまとめていきます。
ブルーノ・タウト
ブルーノ・タウト(Bruno Taut)はドイツ生まれの建築家、都市計画家です。
彼は日本のモダンデザインが発展するきっかけを作った第一人者と言われています。
ブルーノ・タウトは、ガラス・鉄・コンクリートといった当時の最新の素材を用いました。
大胆な構図や強烈な色を使った「色彩建築」を考案しました。
1920年代にはドイツで、労働者の集合住宅(ジードルング)の建設に注力しました。
画像出展元:wikipediaより
日本の団地のようなものですね。
この当時、ドイツの労働者は劣悪な環境下で働かされており、監獄さながらであったと言います。
その問題を改善すべく、ブルーノ・タウトはジードルングを約1万2000戸設計しました。
中でも上の写真にもあるベルリン市ブリッツのジードルングは上から見ると、馬蹄(ばてい、馬の蹄のこと)の形をしています。
こちらは2008年に世界遺産に登録もされています。
この頃タウトのように集合住宅などを手掛ける人は「労働者のための住宅」という社会主義寄りの思想の人が多かったといいます。
そのためタウトは自らの理想に近いという理由で、ソ連で仕事をしていきます。
しかし1933年に母国ドイツに帰国すると、ナチス・ドイツが台頭していました。
そこでソ連帰りのタウトは身の危険を感じたため、シベリア鉄道に乗って日本にやってくるのです。
そして1933年(昭和8年)に福井県に到着します。それが5月3日の事でした。
そして翌日には、京都にある桂離宮を訪れています。
なぜそんなに早い行動だったかというと、実は来日翌日の5月4日がタウトの誕生日で、
彼は「毎年自分の誕生日にいい建築を見る」というのを習慣にしていたのです。
53歳の誕生日に桂離宮を見たタウトは、
「今日が私の今までの中で1番善美な誕生日だった」
「泣きたくなるほど美しい」
と言ったと言います。
桂離宮は江戸時代の17世紀に造られた、皇族・八条宮の別邸です。
茶室・日本庭園・建築から成る数寄屋建築の代表的な作品。
日本庭園と建築群が自然にとけこんでいる桂離宮にタウトは、
「これこそモダンだ」とも絶賛しました。
宮家の別荘として建てられたにもかかわらず、農家のように素朴で、宮殿のような仰々しさがない簡素な美という点に引かれました。
この「自然と建築の一体感」こそ近代建築だと考えたのです。
一方タウトがぼろくそ(笑)に貶し、「野蛮だ」言い放った建築もあります。
それは「日光東照宮」です。
豪華すぎる点がタウトは気に入らなかったようで、伊勢神宮と桂離宮は「皇室の芸術」だと言い、一方「東照宮」は「将軍の芸術」と言ったと言います。
パート1はいったんここまでで。
パート2では、タウトの日本での活動とそんな彼に影響を受けた日本人についてまとめていきます。
【ぶらぶら美術・博物館】「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢」展②
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