【開運!なんでも鑑定団】狩野探幽・狩野孝信の合作屏風【美術情報まとめ】

美術番組

2026年7月14日にテレビ東京で放送された「開運!なんでも鑑定団」の【狩野探幽・狩野孝信の合作屏風】についてまとめました。

番組内容に沿ってそれでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

*画像出展元:テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」より

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狩野派中興の祖 天才絵師 狩野探幽

京都にある二条城
徳川将軍家の権威を今に伝える障壁画の数々は、狩野派の絵師たちにより描かれた

その際に陣頭指揮に当たったのは25歳の若き天才であった。

その天才とは狩野探幽(1602-1674)である。
狩野派中興の祖にして、江戸時代の絵画の基礎を築いた絵師である。

探幽は1602年に京都に生まれる。

探幽の父・狩野孝信(かのう たかのぶ)は狩野派を支えた実力派の絵師であった。

孝信の現存する作品は多くないが、端正で気品に満ちた画風は今なお高く評価されている。

しかし、その息子・探幽は父を遥かに凌ぐ画才の持ち主であった。

探幽13歳の時、徳川二代将軍・秀忠の御前で腕前を披露すると、

桃山時代の狩野派を牽引した祖父・永徳の再来と激賞された。

その後江戸に召され、わずか16歳にして幕府御用絵師に抜擢されるや、鍛冶橋門外に1000坪を超える屋敷を拝領。

若くして本家から独立し、一家をなした探幽は一門を統率。

二条城の襖絵制作などの大事業を次々と成し遂げていく。

しかし33歳の時、探幽狩野派の様式を一変させてしまう

それまでの狩野派は永徳に代表されるように豪放磊落な画風
対象をあえて画面からはみ出して描くことを基本としていた。

これに対し、探幽は瀟洒淡麗(しょうしゃたんれい)
画面の中に対象を収め、たっぷりと余白を取ることで詩情豊かな空間を作り出したのである。

天下泰平の世では、この軽妙な画風が逆に高く評価された。

更に号を「探幽斎」と改めると、数々の代表作を生み出した。

例えば大徳寺の《四季松図屏風》は”一つの画題で四季を表す”という、やまと絵の伝統的な手法を用いながら、金地に大胆な余白をとった意欲的な大作である。

春夏秋冬の松を、人生の幼年期・青年期。

壮年期・老年期の4つの年代に見立てており、探幽の精神的世界が如実に見てとれる。

そして61歳の時、絵師としての最高位「法印」を得ると、更に新境地に挑み続けた。

縦横の比率が6対1という、極端に縦長の画面を用いた《波濤群燕図(はとうぐんえんず)》は最晩年の傑作である。

群れをなして舞い降りる燕のスピード感を、まるでアニメーションのコマ撮りのように描くことで見事に表現。

さらに燕の背と腹の違いを墨の濃淡のみで表すなど、老境に入ってもその画力はまったく衰えることはなかった。

狩野探幽・狩野孝信の合作屏風

改めて依頼品を見てみよう。
狩野孝信探幽親子がそれぞれ一隻ずつ手掛けた六曲一双の山水図屏風である。

こちらは父・孝信の描いた一隻。

遠景に幾重にも連なる山々。

近景に水辺を行き交う人々の姿が繊細な筆致で描かれている。

そして探幽が描いた一隻。

落款には「采女(うねめ)十三歳筆」とある。

采女」は探幽が13歳から33歳頃まで用いた名である。

描き込みが少なく、

表現も至って簡潔なところを見ると、父の指導を受けながら描いた修業時代の作か?

いずれにせよ、探幽の若き日の作品は極めて少なく、しかも父・孝信との合作となればとんでもない大発見だが…

果して鑑定やいかに?

残念 偽物!

5万円!残念!

「孝信の作品でもないし、探幽でもない」

「墨色あるいは紙から判断するに、おそらく江戸時代の末期くらいに作られたものだと思います」

「わかりやすいのは、落款のいちばん上に『狩野』という字があるんですが、どちらも同じ書体。おそらく同一人物が作ったものだと思います」

「右側の屏風に木が描かれてますけれども、すごくザザザっとした感じの。あんまり描くつもりがないというか」

「なぜ親子の合作屏風みたいなものを作ったのかっていうのは謎。という意味では興味深い(笑)」

今回の記事は以上になります。

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