2021年3月27日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【マネ、モネ、ルノワール 19世紀末 美術を変えた三人】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション
世界中で親しまれ、日本でもとても人気のある「印象派」。
その中でも特に人気が高いのが、モネ、そしてルノワールといえるでしょう。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
同学年の二人が兄のように慕った画家がいました。
それがマネです。
マネ自身は印象派展に一度も参加していないことから、「印象派の画家」とはされていません。
しかしマネは、モネやルノワールたち印象派の活躍に多大な影響を与えたことから、「印象派の父」と呼ばれます。
画家マネ
二人より8つほど年上のエドゥアール・マネ(1832~1883)。
19世紀絵画を近代絵画に大きく推し進めた立役者です。
1863年、31歳の時に『草上の昼食』をサロン展に出品しますが落選。
その斬新さがスキャンダルとなり、パリ中を騒然とさせます。
《オランピア》1863年
エドゥアール・マネ
オルセー美術館蔵
さらにその2年後の1865年、サロンに出品した《オランピア》は入選こそ果たしますが、《草上の昼食》以上の不評の波を巻き起こしました。
《草上の昼食》も《オランピア》も、マネは古典絵画を参考にしています。
《草上の昼食》はマルカントニオ・ライモンディの《パリスの審判》を。
そして《オランピア》はヴェネツィア・ルネサンスの巨匠ティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》を基にしています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
両者を並べてみると、構図はほとんど同じです。
それでは《オランピア》のどこが、それほどの不評を呼んだのでしょうか?
それはティツィアーノが描いたのが、女神ヴィーナスの裸であるのに対して、マネが《オランピア》で描いたのは”娼婦の裸”だったことです。
この時代、神話の登場人物以外でヌードを描くのはタブーであり、それが非難の的になったのです。
さらに批評家が非難したのは、作品に奥行きが感じられず、陰影が乏しい平面的な描き方でした。
このような描き方は日本の浮世絵に感化されたものでした。
画壇からのバッシングにマネは心を痛めます。
そんな彼を友人達は励まします。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
小説家のエミール・ゾラは作品を称賛しました。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
詩人のシャルル・ボードレールは、マネに「時代を描け」と激励します。
その言葉に背中を押されたマネは、彼が生きた時代を描き続けました。
カフェ・ゲルボワ
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」
マネのアトリエの近くに、「カフェ・ゲルボワ」というお店がありました。
ここは若き文化人たちのたまり場的な場所になっており、マネら画家たちも出入りしては日夜議論を交わしていました。
彼らは共通して、従来の伝統を重んじる美術アカデミーの教育に疑問を持っていました。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」
やがてカフェ・ゲルボワは「印象派のサロン」のような場所になっていきます。
「自分が見たまま、感じたままに描こう」と考えていたモネとルノワールも、ここでマネらに加わります。
年長のマネは、若い二人の画家を連れて、写生をするためにパリ郊外へ出かけました。
”光を描くこと”は後の印象派の画家たちにとって必須のものとなりますが、その源流はこの若き日にあったのです。
>>モネとルノワールについて