2023年6月14日にNHKにて放送された「歴史探偵」の【謎の芸術家・本阿弥光悦】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
今回の記事はパート2になります。
美の原点 刀剣にあり
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
江戸時代初期に革新的な芸術の数々を生み出した本阿弥光悦。
そのルーツは一体どこにあるのでしょう?
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
その秘密を紐解くカギが本阿弥光悦の子孫のお宅にありました。
光悦の叔父である本阿弥光意から19代目の本阿彌雅夫さんが、代々伝わる家宝を紹介してくれました。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
国宝の『短刀 銘 備州長船住長重 甲戌(びしゅうおさふねじゅうながしげ こうじゅつ)』という短刀です。
この短刀は本阿弥家の第9代で、光悦のいとこである光徳(こうとく)が豊臣秀吉から拝領した、南北朝時代の名刀だといいます。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
本阿弥家は室町時代から代々刀剣の研ぎや鑑定を生業としていました。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
本阿弥家が特に活躍したのが豊臣秀吉の時代でした。
秀吉は褒美として刀剣を家臣に与えていましたが、その価値を高めるために、刀剣を公的に鑑定する部署を設立します。
本阿弥家はその鑑定を任されたのです。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦の父・光二も幼少時代の徳川家康の刀の手入れをしていたと伝わる、研ぎと鑑定の名人でした。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦もまた幼少の頃からこれら刀剣に関する英才教育を受けていたと考えられます。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
本阿弥家では今でも刀剣の研ぎが受け継がれています。
研ぎ師は微妙な違いを見分けるための繊細な感性が求められます。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
例えばこちらは「砕き地艶(くだきじづや)」と呼ばれる研ぎをした前と後です。
素人目にはその違いはほとんどわかりません。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
さらに近くで見てみると、その違いが見えてきます。
研ぎ師はこのような僅かな違いを見極めなければいけないのです。
「これを上品にいかによく引き出すかが本阿弥家の”砕き地艶”となっています」(本阿彌雅夫氏)
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
刃文は刀剣の”顔”ともいえる大事な部分です。
これも研ぎによって模様が大きく変わります。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
こちらを見ると、研ぐ前と後での刃文の違いが一目両全です。
刀剣には一つとして同じものはありません。
それぞれの刀剣の個性を見極めて、その美しさを引き出すことが求められるのです。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦はこれら刀剣の研ぎや鑑定を通じて審美眼を養い、その中で芸術的感性が培われていったと考えられます。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
刀剣を通して審美眼を養っていった光悦。
しかしそれ以外にも光悦の才能を伸ばした要因があったと考えられています。
それが母・妙秀(みょうしゅう)の教育方法です。
光悦の母は、子どもが良いことをするとそれを喜び、たいそう褒めたといいます
また悪いことをした際には、人前では決して叱らず、陰で我が子と優しく諭したといいます。
そうすることで子どもの自尊心が育まれ、またそれが傷つくこともなかったのです。
その結果、子どもの才能が自由に伸びていったと考えられるのです。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦はそれまでにない芸術を次々に生み出していきます。
やがて朝廷の有力者や大名、千利休をはじめとする文化人からも一目置かれる存在となります。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
特に加賀の有力大名である前田家とは親密な関係にありました。
光悦は当代随一の文化人として、不動の地位を築きました。
家康による追放!?天才芸術家の生涯
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
そんな順風満帆な芸術家生活を送っていた光悦ですが、58歳の時に転機が訪れます。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
江戸幕府を開いた徳川家康から新たな土地を与えられたのです。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
その土地は京都の鷹峯(たかがみね)という場所です。
鷹峯は京都の中心部(洛中)の外、洛外に位置していました。
この地は治安も悪く、辻斬りや追い剝ぎなども横行していたといいます。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
なぜ家康はこのような場所を光悦に与えたのでしょうか?
東京大学名誉教授の河野元昭氏は「人々の支持を集めた光悦が家康にとって煙たい存在になり、体よく光悦を追いやったでは?」と言います。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
鷹峯には光悦寺(こうえつじ)という寺が今も残っています。
ここに当時の鷹峯で光悦が創作活動を行ったことを示す資料が残されています。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
こちらがその資料で『光悦町古図』と呼ばれるものです。
その名の通り、光悦が鷹峯に住んでいたころに描かれた古地図です。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
この地図を見ると、治安が悪かったといわれる割に多くの人が住んでいたように見えます。
地図には名前と職業が書かれており、蒔絵の職人や筆を作る職人など、さまざまな芸術に携わる人々が住んでいたことが読み取れます。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
元々人があまり住んでいなかった鷹峯には、光悦が移り住んだ後に彼を慕うたくさんの職人たちが移住してきたのです。
その結果、この場所は一つの”芸術家村”となりました。
またその多くが光悦も信仰する日蓮宗の信者であったことから、「信仰」と「芸術」が根差した村だったと考えられています。
「(これだけ多くの職人が)光悦の周りを囲むようにして住んだというのは、光悦について行きたいという人が多かったという証拠にもなります」(光悦寺副住職 山下光昭氏)
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
番組では古地図を頼りに、当時の芸術家村をCGで再現しました。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
村には全部で56の建物がありました。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
こちらが光悦の家で、村の中心に位置しています。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
周囲には様々な分野の職人が軒を連ねていました。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦は村の職人たちに指示を出しながら、ジャンルの垣根を超えた芸術を作り上げていったのです。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦が移り住んだ鷹峯は、やがて芸術の一大拠点となったのです。
光悦晩年の作品
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦寺には光悦が晩年を過ごした場所が残されています。
現在は茶室となっている「大虚庵(たいきょあん)」。
光悦は最晩年にここに小さな庵を建てました。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦は晩年病気で手が震えてしまい、自由に使えなかったといいます。
そこで光悦は手が震えても作業ができる茶碗づくりに没頭します。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦はそれまでの茶碗の常識を覆すような新しい作品を生み出していきます。
こちらは重要文化財に指定されている『赤楽茶碗 銘 雪峰(せっぽう)』です。
器のひび割れの部分を、あえて金で装飾することで強調しています。
器の傷さえも美へと昇華した傑作です。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
こちらの『白楽茶碗 銘 不二山』は国宝に指定されている茶碗です。
下半分の黒色は、窯の中で偶然焼けてしまったことでこのようになったといわれています。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
底の部分は激しい火力により岩石のように変化しています。
光悦はこの偶然の産物に雪をいただく”不二山”を見いだしました。
またこの茶碗は、娘が嫁ぐときに光悦がその嫁ぎ先に渡したと伝わります。
『不二山』と呼んだのは、二つとして存在しない富士山と、二つとしてない自分の娘を重ね合わせていたのかもしれません。
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
光悦寺には光悦のお墓があります。
1615年に鷹峯に移り住んだ後、20数年をこの地で過ごし、80歳で亡くなりました。
光悦は次のような言葉を残しています。
「良い物は昔のものばかりで、
これから先に良い物ができないというのは実に不自由だ。
そんなことはあってはならない」
画像出展元:テレビ番組「歴史探偵」より
今回の記事はここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。