2020年8月1日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【アルノルト・ベックリン 世紀末の画家が描いた「死の島」】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション
アルノルト・ベックリン(1827~1901)という画家はご存知でしょうか?
スイスの出身で、19世紀末に活躍した画家です。
フランスで印象派が起こった頃と同じ時代の画家ですが、印象派の運動とは全く無縁の画家でした。
象徴主義に分類される彼の作品は独特の世界観があり、多くの人を魅了してきました。
《死の島(第1バージョン)》
《死の島(第一作)》1880年
アルノルト・ベックリン
バーゼル美術館蔵
ベックリンの代表作がこちらの《死の島》という作品です。
切り立った岩肌を見せる小島が暗い海に浮かびます。
「この光景は夢なのか、現実なのか?」
見ていると、そんな不安な気持ちを抱いてしまうような作品です。
島の中央に見える巨大な木は、あのゴッホもモチーフにした糸杉です。
糸杉は西洋では”死の象徴”とされてきました。
しかしその知識がなくとも、この糸杉の姿はどこか不安をかき立てるようです。
「これは夢のような絵だ」
ベックリン本人もまた、作品についてこう述べています。
その小島に向かって、一艘の小舟が向かっています。
小舟を漕ぐのは、ギリシア神話に登場するカロンです。
カロンはステュクス川(日本でいう三途の川)の渡し守をしており、死者の世界への案内人の役割を担っていました。
そのカロンが向かうのが、まさに「死の島」なのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
《死の島》は多くの人の心を捉えました。
当時の一般家庭には《死の島》の複製画が飾られていたといいます。
時代はまさに世紀末。
戦争や時代の転換期で世が混沌としていたこの時代に、独特の魅力を放つこの作品は、人々の心を惹きつけたのでしょう。
《死の島》は注文を受けて描かれた作品でした。
しかしそこにはベックリンのある思いが込められていたのです。
画家:アルノルト・ベックリン
《ヴァイオリンを弾く死神といる自画像》1872年
アルノルト・ベックリン
旧国立美術館(ベルリン)蔵
アルノルト・ベックリンは1827年、スイスのバーゼルに生まれました。
18歳の時にドイツのデュッセルドルフの学校に入学し、フランドルやオランダの精密な北方絵画を模写するなどして、絵画の基礎を学びました。
その後当時の芸術の中心地であるパリに向かい、ルーヴル美術館などで巨匠たちの傑作の数々をみて勉強します。
若きベックリンはさらなる研鑽を求めて、ローマへと赴き、偉大な巨匠たちの作品に触れます。
また1848年にはパリで二月革命に遭遇し、死の恐怖に直面します。それ以降、ベックリンは「死」を様々な形で表現するようになりました。
こちらの《死の島》は現在、スイスにあるバーゼル美術館に所蔵されています。
しかし描かれたのは、当時ベックリンの住まいがあったフィレンツェで、また島のモチーフになったのは1879年に訪れたナポリのイスキア島でした。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」
彼のアトリエの近くにはイギリス人墓地がありました。
《死の島》を描く際に、この墓地の風景を参考にしたといわれています。
じつはこの墓地に、彼が幼くして亡くしたわが子が眠っており、ベックリンにとっては特別な場所だったのです。
作品から漂うもの言わぬ静けさ、これには我が子への追悼の祈りが込められているのかもしれません。
《死の島(第2バージョン)》
さらにこの《死の島》にはもう一つ別の”現実の死”が関わっています。
ベックリンが《死の島》を制作しているときに、一人の女性がアトリエにやってきました。
彼女はアトリエにあった《死の島》に心を奪われます。
彼女もまた夫を亡くしたばかりだったのです。
そこで女性はベックリンに「自分にもこの作品(死の島)を描いて欲しい」と依頼します。
《死の島(第二作)》1880年
アルノルト・ベックリン
メトロポリタン美術館蔵
こうして描かれたのが、現在メトロポリタン美術館に収蔵されている《死の島》の第2バージョンです。
小舟には全身白づくめの人物が直立しています。
そしてその足元には大きな箱が見えます。
その箱にはよく見ると白い布がかけられています。
じつはこの箱は”棺”であり、立っている人物は夫を亡くした女性なのです。
この作品にはベックリンの娘の死だけでなく、夫の死を悼む女性の思いも込められているのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
じつはこの2枚の《死の島》は同時進行で製作が進められました。
ベックリンは女性の思いを汲んで、第2バージョンに女性と棺を描きましたが、第1バージョンの方にもそのアイデアを反映させたのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
ベックリンはその後も『死の島』も描き続け、全部で5作を残しました。
第4バージョンは第二次世界大戦で焼失してしまったため、今は4作品が現存しています。
人々の心を捉えて離さなかった《死の島》。
じつはベックリンはそれとは反対の《生の島》も描いています。
《生の島》
《生の島》1888年
アルノルト・ベックリン
バーゼル美術館蔵
《生の島》は《死の島》から一転、明るい昼間の光景の中に沢山の人が描かれています。
島の上には「死の象徴」である糸杉はなく、緑鮮やかな木々があり、楽園を思わせます。
その楽園の地で、色とりどりの衣服をまとった人々が集っています。
水辺には《死の島》の登場したカロンの姿はなく、水浴を楽しむ人や優雅に浮かぶ白鳥の姿が見え、賑やかな様子です。
ベックリンはこの《生の島》を《死の島》を描いた8年後に描いています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
明るい《生の島》と暗い《死の島》。
「2枚のうち、どちらが好きですか?」と聞かれたら、あなたはどう答えますか?
きっと《死の島》を選ぶ人の方が多いかもしれません。
明るく陽気な雰囲気を好む一方で、「死」を表し、「死と向き合うその姿勢」を描いた《死の島》にどこか共感を覚えてしまうのではないでしょうか。
ヒトラーとベックリン
《死の島(第五作)》1886年
アルノルト・ベックリン
ドイツ、ライプツィヒ造形美術館蔵
あのヒトラーもベックリンの作品を好んでいました。
ドイツでは第一次世界大戦の敗戦により、暗いムードが漂っていました。
ベックリンの作品は、そんな当時のドイツの空気感とマッチしたのでしょう、とても人気があったといいます。
《死の島(第三作)》1883年
アルノルト・ベックリン
旧国立美術館(ベルリン)蔵
ヒトラーは元々は画家を目指していたこともあり、美術についても知識がありました。
ベックリンの力強い作風にヒトラーはひかれたのかもしれません。
実際、この《死の島》の第3バージョンはかつてヒトラーの手元にあり、当時の写真も残されています。
画像が不鮮明で分かりにくいですが、糸杉のシルエットや小舟のカロンの姿から、《死の島》であることがわかります。
ヒトラーは10点近くのベックリン作品を所有するほど、彼の作品を好んでいたのです。
いかがでしたでしょうか。
今回の記事はここまでになります。
最後までご覧頂きありがとうございました。