【べらぼう】歌麿と蔦屋重三郎②【美術番組まとめ】

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2025年1月25日に放送された「浮世絵ミステリー」の【「べらぼう」コラボ 歌麿と蔦屋重三郎“革命”と“抵抗”の謎】についてまとめました。

番組内容に沿ってそれでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

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版元 蔦屋重三郎

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

蔦屋重三郎こと蔦重1750年に生まれます。
7歳頃に両親と離別し、商家の養子となります。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

蔦重は生まれも育ちも遊郭の街・吉原です。
この地で少年時代の蔦重がどのように過ごしたか、その詳細は残っていません。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

24歳の頃、蔦重は吉原の入り口・大門の前の五十間道という通りの一角を拠点に、『吉原細見』の出版に携わります。

「細見」とは妓楼や遊女の評判などが載った、今でいうガイドブックのようなものです。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

右上に見えるのは屋号のマークで、その横に遊女の名前が載っています。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

遊女の名前の上にある山型のマークは遊女の格を示すもので、山型2つが高級遊女です。

吉原の何たるかをよく知る蔦重が手掛けた細見は評判となり、安定した収入源となっていきます。
そんな蔦重は33歳の時に勝負に出ます。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

当時日本一の商売の街といわれた日本橋に店を出したのです。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

そのお店がこちらです。
店先に置かれた看板には「蔦屋重三郎」の名と、その版元印も確認できます。

蔦重はこの店で版元として出版した本・浮世絵などを売っていました。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

当時、浮世絵は定番の江戸土産でした。
浮世絵を求める全国各地からの客で店は繁盛しました。

そんな蔦重が目を付けた絵師が喜多川歌麿でした。

絵師 喜多川歌麿

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

喜多川歌麿は生まれた年、そして出生場所も諸説あり、さらに幼少期の記録も全く残されていません。

歌麿の最初の記録が出てくるのは1770年。
ある絵師の元に弟子入りしていた時のことです。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

その絵師の名は鳥山石燕(とりやませきえん)です。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

歌麿石燕の元でこのような絵を描いています。

茄子…ですかね

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

その上には「少年 石要 画」と書いてあります。
この石要(せきよう)歌麿のことで、師匠・石燕から”石”の一字をもらっています。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

続いてこちらは歌麿が二十歳頃に描いたといわれる役者絵です。
このころ歌麿北川豊章(きたがわとよあき)と名乗っていました。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

歌麿はその後、蔦重と出会うことで画風が劇的に変化するのです。

歌麿はどのようにして絵の力が伸びたのでしょうか?

歌麿の才能はなぜ開花した?

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

二十代の頃は”人気絵師”、とまではいっていなかった喜多川歌麿

蔦重歌麿が30歳を過ぎた頃にある大きな仕事をオファーします。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

それがこちらの本です。
タイトルは『画本虫えらみ』。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

本の中身がこちらです。

美人画ではないですね?

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

筍は表面の毛羽立った様子も描かれており、非常にリアルです。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

その他、花や虫も写実的に描かれています。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

絵の上に書かれているのは狂歌です。
狂歌はこの時代に流行した風刺や洒落をきかせた短歌です。

この『画本虫えらみ』は、狂歌を元にした画本になっています。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

”けら”のパートはこのように書かれています。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

一方、”はさみむし”の方はこのように詠まれています。

歌麿はこの狂歌からイマジネーションを膨らませて、この絵を描いているのです。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

この『画本虫えらみ』について、歌麿の師である鳥山石燕は、「これこそ『心の絵』だ」と称賛しています。

歌麿はひたすらに作品に取り組むことで、飛躍的な成長を遂げたのです。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

蔦重は「歌麿にこれを描かせてみよう」と思いオファーして、ツタジュウの先見の明も分かります。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

結果的にこの絵入り狂歌本は大ヒットし、その後シリーズ化されることになります。

自信を深めた歌麿は巻末に「自成一家」と記しています。
ここには「浮世絵界で自ら独自の世界をつくり上げた」という意味が込められています。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

しかし、この本の成功は歌麿一人の力によるものではありません。
プロデューサー・蔦重の周到な仕掛けがありました。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

蔦重は自分の生まれ育った吉原のネットワークを利用し、当時の文化人を招いた大宴会を頻繁に開いていました。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

ここでは蔦重筆箱と紙を手にした姿で描かれています。
その場にいる人たちに何かを書いてもらおうとしているのが分かります。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

例えばこちらの逆さにした漏斗を頭に載せた男性。
じつはこの人は当代一の狂歌師であり、作家・学者でもあった大田南畝(おおた なんぽ)です。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

この太田南畝の狂歌師としての名は四方赤良(よものあから)です。
四方赤良の名は『画本虫えらみ』の中でも確認できます。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

蔦重はこういった宴会を開いてはそこに文化人を招き、彼らとつながりをつくり、自身のプロデューズ作品への協力を依頼したのです。

そして太田南畝たちはそのネットワークで本を宣伝し、その結果本の評判が高まったのです。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

じつは当時、狂歌を書いても、原稿料が支払われないのが一般的でした。
宴会を開き、お礼をするのは蔦重は狂歌師とより強固な絆を築くことができたのです。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

東京・台東区にある正法寺。
ここに蔦重が眠るお墓があります。

画像出展元:テレビ番組「浮世絵ミステリー」より

そこには蔦重をよく知る人の言葉でこのように書かれています。

彼の気配りができ、器の大きな性格だからこそ、プロデュースは成功し、結果として多くの人を引き付ける作品を生み出せたのかもしれません。

今回の記事はここまでになります。
次の記事では、「なぜ歌麿蔦重の二人は浮世絵の世界に乗り出したのか?」について見ていきます。

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