【日曜美術館】第72回正倉院展②【美術番組まとめ】

日曜美術館

2020年11月1日にNHKで放送された「日曜美術館」の【至宝からひもとく天平の祈り〜第72回 正倉院展〜】の回をまとめました。

今回の記事はパート2になります。
前回のパート1はこちら☚からご覧頂けます。

番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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コロナ禍での「正倉院展」の開催

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

今年2020年の正倉院展はコロナ禍での開催となりましたが、奈良国立博物館館長の松本伸之さんは「何としても開催を続けよう」と考えたといいます。

松本館長は正倉院宝物の本質の一つは「守り伝える精神」だといいます。
そしてそこには「未来へつなぐ」という役割があるのです。
様々なコロナの感染予防の対策を取り、72回目の開催にこぎつける事ができたのです。

《墨絵弾弓 》中倉169

画像出展元:「宮内庁ホームページ」より

読み方は「すみえのだんきゅう」です。
この宝物は中国・唐で作られたものである可能性が高いといいます。

「弾弓」とは、矢ではなく弾丸を射る弓のことをいい、古代中国では武器以外にも狩猟の道具として広く用いられていました。
こちらの宝物は装飾性が高い点から、遊戯用であったと考えられています。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

木の部分にはびっちりと墨で人物が描かれています。
その数なんと96人

奈良国立博物館館長の松本氏は「今でいう100コマ漫画のようだ」といいます。
ただ96人の姿が描かれているのではなく、ここにはちゃんとストーリーがあるのです。

最初に聴衆がいて、そこに前口上を伝える人物が登場し、そこから楽器の演奏や舞が描かれ、様々な出し物が続いていくという展開になっています。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

描かれているのは中国の民間芸能「散楽(さんがく)」です。
「散楽」はサーカスの源流とも言われています。

《花氈》第6号 北倉150号

画像出展元:「宮内庁ホームページ」より

花氈(かせん)》と呼ばれるこちらの宝物は、大陸から海を越えて日本にもたらされました。
長さ2.4メートル、幅は1.2メートルの大きさで、フェルトでできています。
フェルトは、羊の毛を蒸気・熱・圧力を加えて、縮絨(しゅくじゅう)させて布状にしたもので、現代でもよく使われています。

元々は遊牧民の生活道具でしたが、日本では法要の時に僧侶がこの《花氈》の上に座ったといわれています。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

鮮やかな赤や青など、1300年の色彩を今に伝える宝物です。
制作には途方もない手間と時間が掛けられたと考えられます。

この宝物は研究者の間でも、どのように作られたのか、長い間はっきりとしていなかったといいます。
そんな中でフェルトの専門家を研究チームに招き入れて、実製作者の意見から制作方法が分かってきました。

現在《花氈》は北倉に31枚、中倉に6枚と多数残されています。

《五色龍歯 》北宋70

画像出展元:「宮内庁ホームページ」より

読み方は「ごしきりゅうし」と読みます。

一風変わったこちらの品もれっきとした正倉院宝物です。
その正体は重さ4.7キロの象の歯の化石です。

五色龍歯》は宝庫に大塊(だいかい)と小塊(しょうかい)2点が伝わっており、今回の第72回展で出陳されるのは大塊の方になります。
画像を見て頂けると分かりますが、この大塊は3個に分裂しているので、現在は紐で固定された状態になっています。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

灰色がかった白色や、クリーム色、淡い青色の筋も見えます。
これら様々な色がある事から”五色”の龍の歯と呼ばれました。

この宝物はじつは”薬”として扱われていました。
痛みを和らげ精神を安定させる作用があると考えられ、中国・唐からもたらされたのです。

『種々薬帳』と光明皇后

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

種々薬帳(しゅじゅやくちょう)』とは、光明皇后(こうみょうこうごう)が聖武天皇崩御の四十九日法要の際に、廬舎那仏(大仏)に薬を献じた際の記録簿です。
様々な種類の薬が納められた記録が残されており、その数は60種に及びます。
中には現代でも漢方薬として使われている物もあるといいます。

先の《五色龍歯》についても『種々薬帳』に記載が残されています。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

光明皇后は夫の聖武天皇の治療のために集めていたとされる薬を、病に苦しむ人々のために献納したのです。

この事からも分かるように、光明皇后は社会福祉事業にたいへん力を注がれました。
薬を廬舎那仏に献納する以前にも、悲田院(貧窮者や孤児などの救済施設)や施薬院(病人に薬を与え治療する施設)といった施設を作り、病気で苦しむ人や生活に困っている人に救いの手をさしのべていました。

当時はまだ大宝律令が制定され、ようやく政治体制が落ち着いてきた時代であった事を考えると、光明皇后がいかに先進的な社会福祉事業をやられていたのかが分かります。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

種々薬帳』の文末には「病に苦しむものがあれば取り出して使いなさい」という光明皇后のメッセージが記されています。

でははなぜ光明皇后はこのようなメッセージを残したのでしょう?

今回の記事はここまでです。
続くパート3では、光明皇后が取り組んだ具体的な社会福祉事業についてみてまいります。
こちら☚からご覧いただけます。

コメント

  1. […] 今回の記事はここまでになります。 この続きはパート2で(こちら☚からご覧いただけます)。 […]

  2. […] 今回の記事はパート3になります。 前回のパート2はこちら☚からご覧頂けます。 […]

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